選択肢の少ない世界へ…。

そのサービス開始以来続々と、華やかなるはてな貴族たちが爵位の順にブログを開設、その閉じられた試験運用を逆手にとってはご自慢のセレビリティをいかんなく発揮していく様を小指の爪というかむしろ小指、手のひら、腕までをも血が出るまでギギーッと噛みながら流れ出る赤い赤い赤い赤い血でしたためる呪詛の文言。書き残そう。あなたの人生の物語…。
すわ失血死という所まで追い込まれていた私も、待望のはてなブログにご招待いただきこれで最新ブログ社交界にデビュー、赤じゅうたん!(血まみれの…)と気を高ぶらせたは良いものの、おっとと夜会に着ていくお洋服がない、馬車の手配もしていない…てなわけでタイトルは「ロマンティックあげるよ(別邸)」という、以前からのはてなダイアリーから慌ててあつらえた手慰みでごめんね、はてなブログ…。

はてなダイアリー開設時は時間のありあまりアレコレ試行錯誤する気力に満ちた大学生だった私も、今やすっかり職業アル中、焼酎の一本でもなければエントリーひとつ書けない体になりさがりキューティクルは輝きをうしない脳は萎縮し果て認知機能は低下の一途、ブログの設定なんぞ絶対できないのでいっそここで私ははてなブログに望む。もうデザインの設定とかトラックバックとか、そういう難しいの…いらない!トップページに堂々と「はてなダイアリーをゼロから作り直し、どなたでも使いやすく簡単に書ける、フィードバックでさらに進化する」ブログなのだと謳われているので、ここで敢えてはてなへの提言を行いたい。

まずCSSをいじるとか何だとかできないし、与えられたデザインを選ぶのすら面倒くさい(ツイッタのはめ込みとか時計がどうこうとかアクセスカウンターとか、大体何かがうまくいかねえんだよな…)ので、これだ!というデザインが1個あればそれで良い。スープが何種類も置いてあるラーメン屋みたいな戦略はアメブロとかに任せておけばいいし、大体において、中途半端な教育を受けた中流階級特有の「真ん中よりちょい上」意識に囚われたややこしい人たちが、もてあました自意識をたずさえて集まるサロンとして名高いはてな界って「この味で勝負」とか「隠れたこだわり」とか好きでしょ、ほら半端な知性の結果生まれた半端なく半端な批評眼でアレコレ論じるの好きだから彼らって、そして私って。なので練りに練られた抜群のつかい心地のインターフェイスが1つあれば良い。それではてな民みんなハッピー1984。
あとブログ経由でトラックバック遡る人なんていまどきはてなダイアラー(わたしは今日からはてなブロガーです!)くらいのもんなので、そこらへんは全部twitterfacebook赤旗に任せて各ボタンだけ用意。はてなオリジナルのコメント欄もいっそいらないでしょう。上記SNSのコメントが適宜表示されるように改変。あとブクマも独特の「はてな村」の形成には一役も二役も買ってるけど何だか空気が…表面上はリベラルっぽいだけに怖いよね…「ムラ社会を批判するムラ」独特のムラ感が湿っぽいから…いらないよね…。

はてなスターはいるよ!あれは嬉しいから!でも緑とか赤とかデコメみたいなことするの鬱陶しいから、全部黄色でいいよ!あとさっきさあ、開設しようと思ったらURL選べとか言われたんだけど、全然うれしくない。ドメイン見たら一発で「はてな!」って分かったほうが受けが良いと思うのよ、新米ぺーぺー貴族の私は。選択の幅なんて狭ければ狭いほうが良い!究極の美は人民服だし、そしたら舞踏会に着ていくドレスがないからって物怖じしないですむでしょう!まあどうせ、そしたらそしたでマオカラーの高さでおしゃれ合戦が始まるんだよね…。結局はてなが見直すべきは客層、あるいは粘着的に過ぎるはてな民のパーソナリティだよね、私も含めた…。

以上、はてなブログをどんな感じで使うかあぐねながらひとまず初エントリー。ツイッターについつい意欲を奪われていた旧ブログ(でもね、一等賞に千年メダルで愛してますマジで…)との住み分けどうしようかしら。はたして私は、ブログを改めることでハイロウズクロマニヨンズになった時のような初期衝動を取り戻せるのであろうか!

書き残そう。あなたの人生の物語…。

基央

バンプオブチキンの「天体観測」って恋とか人生とかそういう「答えのでない」ものの正体をそれでも探してあがいては挫折する一連の動的過程(=青春時代)を、「レンズで星をのぞく」という行為に重ねた曲だと思うんですね。肉眼じゃ見えないなら望遠鏡で拡大してほうき星探したらぁ!だっしゃぁぁぁ!!(金ちゃん風)…といった。

この「肉眼じゃ無理でも、何らかの適切なデバイスを用意すれば答えは見つかる」「そこには◯◯星という確たる答えがある」だったら後は根性だぜ、だっしゃぁぁぁ!!(金ちゃん風アゲイン)とう構え、最初にこういう考えが生まれた(つまり「近代」という枠組みの有り様を方向付けられた?)瞬間のレボリューショナルな瞬間風速というのは確かにエポックメイキングなものだろう。
ただし、(過去の遺産にあぐらをくんだ視座からの後付ジャンケンではあるが)そういう突き詰め方は一方で、ある種の未成熟さをたたえたものにも思える。天空という座標軸に位置づけられる「星」、すなわち「点」として措定される絶対的な答えなんてねえぜというポジティブな諦念を引き受けていくことの方が良くも悪くも、異論は多々あるだろうけれど「オトナになる」ってことなんじゃないか。

つまり「点」としてばかりものごとの答えを探すのではなくて、望遠鏡を手放してみようという話だ。すると星座という星の相対的な配置に意味が見えてくる。昔の人は肉眼で星ばかりみていたから最初に星座を思いついたんだけど、現代に生きる僕らは「望遠鏡ありき」だもんだから、星座の発見。そういった「できちゃった婚」的な順序の逆転に驚かされたりする。
星ばかりでなく例えばお月様なんていくら望遠してもでこぼこが見えてくるばかりだったりして、ふと肉眼で見つめ直すとうさぎさんがペッタンペッタンと…それはとてもロマンティックじゃないですか。見えないものを見ようとするやり方がまた一つ見つかる。

星座なんて人間の主観バリバリでとても「真の答え」には見えない、んだけれども、そこには人生に利を与えハッピーをもたらす何ものかが宿っている(これもまた「できちゃった婚」問題で、そういう意味付けに足る星々の配置こそを「星座」と呼ぶのかもしれない)。
星と星座。単なる好みとして、僕は「星座」が好きなんだなあと思う。人間と社会。それは人とのつながりだし、関係の順列組み合わせだし、でも最終的には個人に還元しえない素敵なピクチャーとなる。
それぞれは点に過ぎない星と星をつなぎ意味付ける、決して見えない関係性の糸(それは人間の意図でもある)、記憶と解釈の渦。星の配置は「こと」や「わし」を型どり、そこに密度が「川」を描けば七夕が産まれる。

リバーシブル

星の王子さまに出てくる「帽子かと思ったら象を飲み込んだウワバミでした」の図。みなさんもどこかで目にしたことがあるだろう。一度目にしたら忘れない、遠くからは帽子にしか見えないあの絵。


図1:帽子にみえるけどよく見たらウワバミでした!


図2:ウワバミの中には象が飲み込まれていました!

ここで、友人や恋人に、あるいは自分の息子/娘*1に図1を見せられ「ねえねえ、これ何に見える?」と聞かれた時のことを考えてみる。僕らは知っている、よく見れば帽子ではなくウワバミだということを。僕らは知っている、そのお腹の中にはなんと象が潜んでいるということも。そして知っている、象を飲み込んだウワバミでしょ?と答えることが必ずしも、いや、多くの場合に「正解」ではないということを。
その問いはおそらく「あなたと驚きを共有したい」という親密な「毛づくろい」の構えなのであり、毛づくろいには毛づくろいをもって応じてあげたい。だったら正体を知りつつ「帽子かなあ?」と答えるのがいいんじゃないかなあ。そんな風に思う。所有する知識を常にすべて開示する姿勢 (習った漢字はぜんぶ漢字で書かなくてはいけないと思っている小学生のような) だけが「正解」ではない。「敢えての知らんぷり」をきめこむ、そういったタイプの粋でありやさしさ。そこには「くるみ」を胡桃と、「あなた」を貴方/貴女と記すことでそこなわれるこまやかでこぼれ落ちやすい、だからこそとても大切な情感がひそんでいるのではないかしら。


ここでCMです。aiko恋のスーパーボール

aikoの楽曲を聞いていつも思うのは「aikoって〈あたし〉のことしか歌わないよなあ」ということ。もう4年以上も前の話になるけれど2006年に「彼女」というアルバムが発売されるタイミングで、僕はaikoの歌についてこんな風に書いていた。今でも大筋での評価は変わっていないので再掲する。

あたし、あたし、あたし、あたし。あたしの気持ち、あたしの前髪、あたしのため息。彼のことが好きなあたし、彼をこんな風なやり方で見ているあたし、彼のしぐさにいちいち一喜一憂するあたし。
もちろん好きな「あの人」のことを歌っている場面もあるけれど、それは翻って「彼からあたしはどう見られているだろう/思われているだろう」「あたしは彼からこう見られたい/思われたい」の鏡うつしでしかなく、そこで実質扱われる主題はやはり私の内面、すなわち「あたし」であるように思える。あたしの気持ち、あの人の背中、あたしのため息。

(中略)

彼女が真に歌うのは、「あの人」ではなく「あたし」のことだ。「あたし(主体)」から発せられた気持ちは「あの人」を経由して回帰し「あたし(客体)」に投射される。「あの人」とは、一人称の「あたし」が三人称の「あたし」を思うために必要な「鏡」に過ぎない。

だからこそ。
だからこそ新譜のタイトルは「彼」(=「あの人」)ではなく「彼女」(=「あたし」)だった。

(中略)

むしろ本当に彼女が(彼女の歌に共感を覚える人たちが)愛して止まないのは、「あの人」のことを考えてはあれこれ悩み揺さぶられ焦がれる「あたし」なのだろう。なぜって、彼女(彼女たち)は相手が何を言おうが何をしようが、結局は自分のこと、「あたし」のことばかりを四六時中考えているのだもの。

年月を経て全くブレのない彼女の世界観は、僕からすると*2結構な畏怖の対象であったりもする。他者性の不在を通奏低音にデビュー以来延々と展開する、〈恋ごころ〉を主題とした永遠のボレロ。〈あなた〉という固有の存在があることの意味・実存在性が漂白・捨象された地平で、〈あたし〉の感情をゆり動かすメディアであり手段、すなわち打ち消し記号付きの〈あなた〉として男性は描写される。〈あなた〉は最初から既に〈あたし〉に飲み込まれているのだ。


〈あなた〉を思うこの気持ちという、〈恋ごころ〉のフォーマットをとりながら、その実〈あなた〉という透明な二人称を通じて実現されるセルフ毛づくろいがaiko/ファンたちのスカートの奥では日夜繰り広げられている。彼女の曲を聞いているとついそんなことを考えてしまう。最新作から年次をさかのぼりつつ、シングル曲から実際の歌詞を確認してみよう*3

あなたの指先が初めて耳をかすめた/あたしの体の真ん中 自分じゃないみたい/少しこもった熱が更にあたしの気持ち/ぐるぐるひっかき回してはかき乱す/瞼も爪も髪も舌も離れなくて困った/幸せはすぐ隣だ
aiko恋のスーパーボール』2011年

二人周り流れるストーリー あなたがここに居てくれるなら/後悔せずに前を向いたまま 立ち止まる事も怖くないのです/二人何処かで廻るストーリー 静かに終わりが来たとしても/最後にあなたが浮かんだら それが幸せに思える日なのです
aiko 『シアワセ』2007年

過去にも2人は同じ様に 出逢ったならば恋をしたね/この気持ち言い切れる程あたしは/あなたの事を今日も夢見る
aiko 『蝶々結び』2003年

少し背の高いあなたの耳に寄せたおでこ/甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし/流れ星ながれる 苦しうれし胸の痛み/生涯忘れることはないでしょう/生涯忘れることはないでしょう
aiko 『カブトムシ』1999年

意図的に歌詞を選択したところもあるが、やはりどこからどう見てもaikoの楽曲は「あなたのことが好きなの」とつづられた〈恋ごころ〉の歌だ。メロディが伴えばなおのこと、「あなた」へ向けられた〈恋ごころ〉はリスナーの胸ぐらを掴んで離さず、絶え間ない甘ずっぱさの中で聞く者を恋のベクトルへと感化していく。たとえば異性の僕をして「恋が、恋がしてえよぉぉ!!」と叫び出させる程に*4
ただやはり。この〈恋ごころ〉の世界からは (「僕にはそう思える」以上の説得力がないことは十分承知の上で) 思いを寄せられている「あなた」が一体どういう人物なのか、それが不思議なほどに浮かび上がってこない。歌詞の中に語られる「あなた」は指先や耳というパーツであり思い出され夢見られるイメージであり、それはやはり〈あなた〉でなく〈あなた〉なのだと思う。恐るべき恋愛引力は〈あなた〉という個別・具体的な関係性の中にではなく、あくまで〈あたし〉に取り込まれ装置化された〈あなた〉を風景に立ち現れている*5

星の王子さまサン・テグジュペリ。あなたを思う〈恋ごころ〉かに見えたaikoの楽曲は〈あなた〉を飲み込む〈あたし〉の歌だった。飲み込まれた〈あなた〉は透明な二人称〈あなた〉へと転化され、かくして〈あたし〉に奉仕する装置となり甘やかに機能する。星の王子さまサン・テグジュペリ。図1〈帽子〉の正体は図2、つまり〈象〉を飲み込んだ〈ウワバミ〉だった。飲み込まれるのは〈象A〉でも〈象B〉でも構わない。象とは〈ウワバミ〉=〈あたし〉に取り込まれ〈帽子〉=〈恋ごころ〉のフォルムを作るための装置なのであり、その意味でまさしく。〈あなた〉と相似形の〈象〉である。

aikoの例は極端なそれとして、〈あなた〉を思う感情が〈あなた〉を生み出すというジレンマ。これはおそらく愛情にまつわる問題として誰のもとにも訪れうる*6、いや、どんな場合にも「常に必ずつきまとう」類のものに違いない。無償の愛を実践できるのは神様だけだ。
「私はあなたが好きだ」というありふれた、しかし一つとして同じ形のない、だからこそかけがえの無い感情を相手に伝えるとき。〈私〉は〈あなた〉を〈あなた〉にしていないだろうかと振り返るステップはきわめて肝要だ。〈あなた〉として他者を目的化せずに〈あなた〉として扱うべきだ、と言っているのではない。神様以外にそんな芸当はできやしない。不可避的に〈あなた〉を生みだしてしまうんだったら、せめてそこに反省を携えましょうよ、その方がやさしいじゃん、そういう気持ちで踊り続けたいじゃん。そう思う。

一方で「私はあなたが好きだ」と告げられたとき。それは自身が〈あなた〉として承認される歓喜のひとときであり、同時に自分が〈あなた〉でなく〈あなた〉として捨象され殺される瞬間でもある。でも僕はそれでいいんだ。彼女の〈象〉になれるのであればそれで十分に嬉しいと思う。彼女は〈ウワバミ〉だから僕を〈象〉にするし、でも僕は彼女のことが同様に好きなので〈象〉=〈ウワバミ〉となって不本意ながらも彼女を〈象〉にしてしまう。
「あなたは〈ウワバミ〉になって僕を〈象〉にしているよ」と種明かしをするのは野暮だし、一方僕が彼女を〈象〉にしていることなんて百も承知の上で、「それでも良いよ」と彼女は答える。

所有する知識を常にすべて開示する姿勢だけが「正解」ではない。「敢えての知らんぷり」をきめこむ、そういったタイプの粋でありやさしさがある。言葉にすることで消えてしまう、こまやかでこぼれ落ちやすい、だからこそとても大切な。互いの正体を知りつつ、だからこそ2人で1つの〈帽子〉として、〈象〉と〈ウワバミ〉が互換可能なリバーシブルの〈帽子〉として笑い合えれば。
ねえ、これ何に見える?うーんと…〈帽子〉じゃないかな。ゲラゲラ。実はこれね、裏返しても…〈帽子〉なの。僕らは互いに互いの〈ウワバミ〉と〈象〉。ゲラゲラゲラ。

*1:子供いませんが、まあ想像するくらいは許して下さい。

*2:「男からすると」と書きたいが、その拡張はさすがに不可能だろう。

*3:アルバム全部もってるし、シングルに絞ることはないんだけど、なるべくたくさんの人が知っている歌詞が良いかと思って。

*4:実際には叫んでいないので安心してください。

*5:だからこそaikoの歌は万人のあらゆる〈恋ごころ〉への汎用性に満ちていて、彼女の楽曲は圧倒的なポピュラリティを得ているという風にも考えられると思う。

*6:もちろん、女性が男性を好きになる場合に限らず、男性が女性を好きになる時にも。

シナトラ

新年度からの勤務先はなかなの巨大病院でありまして様々な科がひしめき「コンサルト」が頻繁に行われます。自科の知識だけでは解決できない病態について他科の先生方に専門的なご意見をうかがうことでより良い治療を目指すわけです。コンサルトを行う上でのしちめんどくさいルール*1も多々あり辟易することもしばしばですが、深い専門知識をもったプロフェッショナルにご意見をうかがうのだから最低限の節度とマナーは必要であると自らを戒め、一方で自分がコンサルトを受ける際にはルール・規則に(周囲へは迷惑をかけない範囲で)可能なかぎり囚われずに迅速かつ愛想よく応じて差し上げたい、大事なのは体面ではなく患者さんの治療。そう考えて毎日はたらいています。


患者さんへの関わりを継続するなかで、あるいは同じ科から何度か依頼をいただくなかで段々と他科の先生方と「顔なじみ」になっていけることもコンサルテーションの一つの魅力です。病院の規模あるいは医療従事者のポピュレーションに比例して互いの顔が見えにくくなるのは避けがたく、知れぬ情緒や読めぬ気心がよけいな距離感を生み、それがまた上記の「しちめんどくさいルール」につながっていく…この負の連鎖を断ち切るのは地道な人間関係づくりであり廊下や病棟ですれ違いざまに交わされる「お疲れさまです」の草の根である。そう考えて毎日はたらいています。


そんなワタシを悩ませる案件として「フランク過ぎる先生」があります。ここからは多少話を盛りますが、ほぼ現実です。今月になって現れた稀代のニューカマー(以下フランクのFをとってF先生と呼びます)も当初は、礼儀正しい好青年でした。電子カルテ上にはあらかじめ「平素より大変お世話になっております。◯◯で入院中の患者様を紹介させていただきます。カクカクシカジカ。以上、ご多忙とは存じますがご高配をいただきますよう、何卒お願い申し上げます。F 拝」と礼節に満ちた文面を用意、その上で「△△科のFと申します。先生、ただいまお時間よろしいでしょうか?カクカクシカジカ。はい、それでは失礼します。本当にありがとうございました」と直接のPHSコールもあり。カンペキです。礼儀王です。礼・チャールズです(愛さずにはいられない…)。


今思えば2度目の電話に気配がありました。F先生からの礼儀正しい電話連絡の最後が「どうもで〜す」だった。間違いなくどうもで〜すだった。自分に対する言葉づかいなどどうでも良いのですが初回コンサルト時の丁寧な口調とのギャップにひっかかりを覚えたのも事実。そして事態は風雲急、次の日に廊下ですれ違って見るとどうでしょう、ほがらかに右手を挙げいかりや長介の構えを見せたF先生の開口一番が「ちゃ〜す」だった。間違いなくちゃ〜すだった。「僕は礼・チャールズですよ〜」の省略形でちゃ〜すと述べている可能性もなくはないものの、表情や身振りから推察するにワタシに対して「こんにちは」のざっくばらんバージョンとしてのちゃ〜すが発されている公算が高い。ん?職場で一度会っただけのワタシのような他科医者ですら「顔なじみ」認定していただけてるみたいですケド…(上地雄輔風語尾)。それはすごく嬉しいですケド…(神児遊助風語尾)。でもさあ、やっぱ、っていうか…距離…近くね?


そして先の金曜日。平常業務にいそしんでいると院内PHS着信アリ。「はい、精神科shoshoshoshoです」「ちゃ〜す、Fっす〜。抜管*2したら戦国時代がどーたらとか言い出した患者さんがいるんでセンセイに今すぐ診てほしいんすけど、どうっすか〜?忙しいっすか〜?」うーむ、フランク…。実際に現場に行ってみると遷延した鎮静剤*3ででろんでろん状態の患者さん。その横では朗らかなスマイルと長介の右手。ちゃ〜す、どうもっす〜。
もう完全に距離ゼロ。最初はあんなにも、過剰なまでの礼儀に満ちていた、「心の距離は地平線の向こう、バオバブの木あたり」くらいのイメージを抱かせていたF先生が今や鼻息が触れるほどの眼前に。るろうに剣心で一気に間合いを詰めてくるものすごい俊足の剣士いたじゃないですか、沖田総司みたいな*4。あんな感じで「えぇぇ?!息一つ切らさずにバオバブの木からここまで?!薫殿!」と驚きながら一瞬の錯覚。俺、F先生の彼女だったけな…。俺、昨日F先生と寝たっけな…。


彼女じゃねえ!寝てねえ!そもそも俺、薫殿じゃねえ!
F先生と食事に行ったわけでも夜景ドライブしたわけでもそのままお泊りネンネしてしまったわけでもなくいのに気がつけば「俺のオンナ」あつかいされている*5、そんな状況は難しすぎて飲み込めません。因数分解できません。そもそもワタシは既に入籍しており妻のある身、なぜ職場でリスクに満ちた倫ならぬ恋に身を染めなければいけないのでしょうか。チェッカーズばりに「彼氏」を気取られただけでも腑に落ちない上に「彼女であればフランクに接して良い」「抱いたら俺のオンナ」的な人間関係の捉え方自体もどうかと思われ、F先生は「他科医者を彼女あつかい」の時点でおかしな選択肢を踏んでおりなおかつ「抱いたらフランク可」と2段階でおかしなことになっていると感じるのです。しかも肝心の患者さんは寝こけてて精神科の診察どころじゃねえしな!
ワタシはにこやかに「ご紹介ありがとうございました。目が覚めたらまた呼んでくださいね」と部屋を出ました。背中にあびるのは朗らかなご挨拶。そしておそらく長介の右手。ちゃ〜す!


以上、新しい勤務地での近況報告でした。

*1:緊急でない場合は前日までに紹介の文面を用意した上でホニャララ、当日緊急の場合はまずAに連絡した上でBに報告をし、その上でAに折り返すなど。

*2:例えば肺炎で患者さんの呼吸状態が思わしくない場合に人工呼吸器へつないで呼吸を補助するなどの目的で気管挿管を行います。治療が進んで呼吸器の必要がなくなり、挿管されていたチューブを抜くことを抜管と言います。

*3:気管挿管状態は様々な観点からとても苦しく通常耐えられるものではないので、十分な麻酔鎮静剤が用いられるのが一般的です。抜管前にはそういった薬を徐々に減らして意識をなるべくクリアにします。

*4:ググったら志々雄一派の十本刀最強、瀬田宗次郎でした。

*5:されていません。

肩まで伸びて

もう、あれですよ、シーシェパード。結婚式を控えた花嫁のみせる対話困難っぷりたるや捕鯨船を前にしたシーシェパード、いやそれ以上だからモアザンシーシェパード村さ来で言ったら生搾りシーシェパードサワーですよ。
ブログ諸氏には報告が遅れ大変申し訳ありませんがこの度ワタクシ結婚することにあいなりまして、ご両親への挨拶だ式場の選定だ筋トレだ(新郎新婦どろんこレスリングに向けて…)とアレコレ活動しておるわけで、経験者の方々におかれては百も二百もご存知の通り。時には「意見の食い違い」なんていうありきたりな季節がありきたりな2人には訪れるのでした。


酔っぱらった中央線を寝過ごしそのまま大月にたどり着いてしまうワタクシ(大月の夜には真っ暗闇と満月の2色しかなかった!)のような人間なんぞと結婚してくれる。その時点でかなりの菩薩さま感にあふれる弥勒な心もちの、人とホトケの合いの子とでも言うか非常に人間のできた「せんとくん」かくやの女性なんですうちの花嫁さんは。考え方も常識的でバランス感覚にすぐれているように思われ、お湯をかぶっても男に戻らないことだって確認されましたし、唯一の欠点といえばワタクシからの求婚を断りきれなかったアルカイックな性格くらいのもの。なのに、だのに。そんな彼女も、いやそんな彼女ですらウェディングドレスを前にすればあれよあれよと。今、花嫁たちは!シーシェパードに豹変しています!…もう勘弁してくださいと。


きれいにウェディングドレスを着たいからとダイエットを開始。仕事の合間を縫っていそいそとスイミングに励む毎日、何となればエステも捕鯨も辞さないぞ!ガオー!と意気込む。そんなワタクシを前にして「それだけは絶対やめて!」とか。ぬかしよる。うちの花嫁様が。いや、俺も着てみたいしさぁ…。それだけは絶対やめて!でもさぁ…。やめて!…何たる対話不能性。シーシェパードネス。シーシェパーティビティ。しんごですよ、しんご。こんなもんシーシェパードを通り越して楽シーシェパードしんごですよ。誰だよそれ。
分かってんのかと。花婿の気持ちが分かってんのかと。男がドレスを着る機会は女性のそれに比してますます少なく、事実上「皆無」と言っても良いレベルでしょう。なればこそ自分が主人公になれるハレの日つまりブライダルの瞬間に。今、花婿たちは!純白のウェディングドレスを着てみたいと考えています!今、花婿たちは!ドレス姿で親族や友人に祝福されたいと考えています!(ゼクシィのコピー風)


こうなったら雪解けを待つ、違うそうじゃない、自身の手で雪を溶かし山を動かすしかないようです。彼女側からの要求に大幅な譲歩を示し(披露宴じゃなくて二次会じゃなくて三次会でだったら着ても…良いか…な…?)、ドレスアップに向けダイエットに勤しみ続け揺るがぬ気持ちをアピール。ブログに想いをしたためることで届かせる熱意。どんなに分の悪い鬼ごっこも、ひたすら走り追いかけ続ければトラ柄ビキニ女子が自ずから捕まりに来る…。るーみっくワールドが私に教えてくれた教訓の一つです。


とまあそんなこんなで、今年どこかで入籍します。実際のところはモメ事など何一つなくやっています。今、花婿たちは!花嫁がいちばん幸せな結婚がいいなと思っています!だけれど、ドレスはドレスで本気です!

僕が死んだら宴会のチャンスくらいに思ってください。

私は饒舌だ。自分に自信がないだけに言葉を飾り張りぼての虚勢を張ろうと、昨日も今日もそして明日もいつだって饒舌だ。だからこそのルールとして、最低限の倫理としてこれだけは思う。語り得ないものに関してはとことん沈黙しなくてはいけない。

ペットを飼ったことのない人間の実感や哀切の全く伴わない意見であることは百も承知で、長年連れ添った愛犬が亡くなったときを考える。愛しのロッキーが介護の甲斐なく人知れずこっそりと、夜中に息を引き取った時。沈鬱なの空気の立ち込める中、きっと彼女はこう言う。優しい子だったからね、みんなのことを気遣って夜中にひっそりと逝ってくれたんだと思うの…。愛犬ロッキーのたどった死の転帰をかような形で「解釈」する言葉は、決して少なくない頻度で聞かれる。事態はペット・ロスに限らず、近しく情ある親族の場合も同様だろう。みんなに看取られて、きっとおじいちゃんもあの世で笑ってるよ…。最後だけは苦しまずに逝けて、あの人は絶対幸せだったよ…。
ああ!私はもうこれが、本当に苦手で苦手で!

死は重い。とても重い。親愛の情あればこその哀切は、その死をあるがままの死としてクールに受け止めることを、現世に残された私たちへ決して許さない。その「受け止めきれなさ」が心からあふれ場に漏れ出す現象を指して先人たちは「喪」の概念を創りだしたのではないか。なんてなことを思ったりもする。
だがしかし愛犬の死が、もしくは親愛なる肉親や友人たちの死がどれだけ心的負担になるとはいえ、その死を「ストーリー」に回収することは許されるのだろうか。この反語的疑問文がいつだって私の心内でくすぶってきた。

つまり何を言いたいのかというと、死者の心情を勝手にでっち上げないでくれよ!そういうことなのだ。ごく一面的な定義に過ぎないが「死」というのは、「分からなくなること」「実証可能性から完全に切り離されること」だと思う。嘘を隠さば墓場までという言葉が示すとおり、どんな嘘も本当も、どんな夢も後悔も裏切りも歓喜も仮定も革新も、死んでしまえば全部が全部あとの祭り。それこそが死だ。訪れたその後には決して内面を検証できない世界、ザッツザネイチャーオブザデス。
死人に口無し、そこでは当然ながらあらゆる憶測が可能で、なればこそ安易な憶測は慎まなければならない。語り得ぬものには沈黙を。敬意を。畏怖を。ザッツアマナーフォーザデス。

「死んだあの子は/あの人は◯◯だったよ」なる語りが採用されるのは得てして、いや、ほぼ確実に、残された側が死の現実を、あふれた「喪」の重さを受けとめきれない時だ。あまりの哀切にに押しつぶされそうな、喪失のもたらす空虚さがある種の重力となってのしかかる、そんな時。
決して実証され得ないからこそ、捏造された虚数としての「死者からの愛情」は瞬く間に場を支配する。死がもたらした負の磁場から逃れるための実にご都合主義な、死者の心情を手段に貶める、実に耳心地良いお伽話。
お前の心を守るための勝手な都合で「大切なモノの死」を利用すんなよ!道具に貶めるなよ!正直なところそう思う。

分かる。それが単に「寂しいよ」の言い換えなのは分かる。寂しくてたまらず理屈どうこうでなく思わず口にしてしまう言葉なんだろう*1。それは愚かである程にまぶしい、人間性のかがやける発露だと思う。でもそれは「虚」なんだよ。実証しえない時点で空想/架空の域を脱しえない絵空事。死んだあの人はきっと◯◯と思ってくれていた *2という(実証しようのない代わりに)決して否定されないどこまでも保護的なストーリー。

だがしかし。愛する者の死を、自分に都合良いストーリーに落としこむことの後ろめたさには自覚的でありたい。悼むべきその死に耐え切れないのはあくまで自分の都合だ。そして死者を「偲んで」いる振りをしつつその時、実際にいたわっているのは自分自身の心であったりする。「あの人のことを偲ぶ」という形に見せかけて、自分も周囲も欺きながら、その「死」を実際には自身をなぐさめるための手段として用いるという悲喜劇めいた詐欺行為が行われている!
勘違いしないでほしい。詐欺だの後ろめたいだの言っているけれど、そういう心的メカニズムをけなしたいのでも非難したいのでもない。それは人間として自然な行為であり心情だと思う。ただしその欺瞞性には自覚的でありたい、そういう話なんです。

死者の心情を推測することで圧倒的な「死」の存在に揺さぶられ潰されそうな、自身の精神状態に安寧をもたらそうとする。それは健全な防衛機制であるに違いないが、やはりそこには一種の品の無さが漂うように思う(一方それは人間臭さとも言い換えられるだろう)。もちろんそれは愛情と同義語なのだろうから、下品も下賎も大いに結構!ただしかし、できる事ならそれを「自覚」していたいよな。なんてな甘ったれた妄想を抱きもする。

死を解釈することであり物語に落としこむことは、死を道具化することなのではないか。決して語り得ない、だからこそ神聖な*3領域を汚すことなのではないか。
そうは考えない人がいるのも分かるし、彼らをけなしたいのでも攻撃したいのでもないの。ただただ、好みの問題として、しかし切実にそう思うの。
私は饒舌だ。昨日も今日もそして明日もいつだって饒舌だ。だからこそのルールとして、最低限の倫理としてこれだけは。

語り得ないものに関してはとことん沈黙しなくてはいけない。以上です

*1:僕だってそういうときはたくさんある。なので、僕は決してそういう人たちをこのエントリで非難したいわけじゃない。ホントに。心から。ただとにかく死に際してはそういう考え方が「苦手」だっていうだけなのです

*2:なぜってそう考えたら自分の心がこれ以上負担を担わずに済むから!←脚注になってるけどものすごく重要なポイント!!

*3:この修辞展開に理屈はありません。単なる僕のマイ宗教です(宗って「みんなが集まる」って意味だからマイ宗教って実に語義矛盾だけど)