お別れ

祖母が亡くなって、きちんとしたお葬式っていう形では無かったんだけど、一連のお葬式会をしてきた。まあしばらく前から年並みに体調を崩していたし、享年89歳ということで、あまりに突然の死というわけではないんだけど、今年の正月に会って話したときにはああまだもうしばらく祖母は生きるなって印象だったのに、その後寒さが増すに連れてみるみる体調を崩したらしくて、26日の朝に訃報を聞かされたときには本当にびっくりした。あ、自分ってこんな風にびっくりできるんだ。って具合、絶対音感みたいにびっくりした。
棺桶に祖母を移して、火葬場に行って、火葬してもらって、お骨を拾った。その祖母は偏屈ですぐに説教じみたことを言うしっていうか説教ばっかりするし、住んでる家はボロボロで床なんて微妙にべたべたしてるわ壁に変な臭い付いてるわトイレはボットンだわで、正月にその家を、祖母を訪ねるのが小さい頃はイヤでイヤでしょうがなかった。正直、孫として生きるために孫としての「お勤め」をこなしてる感じだった。彼女との思い出は、そりゃあ楽しかったことだってたくさんあるけど、基本的には良い印象のものじゃない。
なのに、月並みなんだけど、そんな祖母でも死んでしまうと何となく寂しいんだな、やっぱり。っていうかこういう感情に月並みもへったくれもなくて、とにかく何となく寂しいんだな。最近は2・3年に1度会うかどうかだったからそこまで親密な家族ってわけじゃなかったし、大好きなおばあちゃんだったってわけでもないから涙なんてこれっぽっちも出ないし、まあ言ってしまえば僕の悲しみの射程距離の外にある人だったんだけど、それでも、遺体に触れたとき、骨になったその姿を見たとき、やっぱり僕は寂しかった。ああ体が冷たいなあ、ああ燃やすとホント骨だけになっちゃうんだなあと思った。
寂しいっていう言葉は不正確で、ニュアンスはちょっと違うんだけど、取り敢えず一番近い言葉が「寂しい」だから寂しいってここでは表すことにしておく。僕は小説家じゃないからそういう乱暴なことをしても許される。
悲しくないのに寂しいっていうのは初めての経験、奇妙な感覚で、血が繋がっていることのすごさを何とは無しに感じた。人間といっても一種の動物。という意味で血縁者の死に喪失感を抱いているのか。それとも、孫とか家族とか家系とか、そういうのを大事にする社会システムの中で生きてきて、親族を失うことに関する適切な感情の規範を身につけているから喪失感に包まれているのか、一体どっちなのかそれはよくわからないけど、血が繋がっているっていうことが、今とりあえず生きている僕にとって、とても大きな意味を持っていることは分かった。
祖母よ、あなたのことは好きじゃなかったけど、でもやっぱりあなたはすごく大事で特別な人だったみたいです。どうぞ、安らかにお眠りください。