明日ハレルヤ

ミスチルのドームライブ見てきた。本当にすばらしかった。今も興奮がさめやらない。
5万人が同じ曲を聞き、共に歌い、一人一人がそれぞれに思い出を想起してはそれぞれの感動を覚える、そんな体験ができる空間なんてそう味わえるもんじゃない。それぞれの持ち寄った思い出は、一同に介し「みんなのミスチル」という共同幻想へと姿を変え、東京ドームを埋め尽くす、飲み込む。ミスチルを好きな人がこんなにたくさんいる、そんな「つながり」の空気の中、最終的には個人のレベルでそれぞれの思い出を抱えみなが歌う。そしてそのシングアロングは「みんなのミスチル」という甘く幸福な共同幻想をより強固なものへとリアルタイムに紡ぎ直していく。そういう有機的な営みの無限循環が、Mr.Childrenというバンドを、彼らの奏でる曲を媒介に触媒されていく、そんな3時間が本当にあっという間。そして美味すぎるビール。
「みんなが歌える」ってすごいことだなあと思った。多分ここまでの空間を作れるのって今の日本でミスチルとサザンくらいだ。


個人的なハイライトは「くるみ」「蘇生」「hallelujah」で、そのすばらしさってのは到底言葉になんて。僕は「hallelujah」の大サビが身もだえするほどに大好きで、やっぱり実際に「hallelujah」で身もだえした。「ハレルヤ」って言う叫び。世界広しといえども、「hallelujah」を「晴れるや」と未来への希求として解釈できる言語体系はおそらく日本語だけで、そんな言語が独占的な公用語として機能しているこの国。この国に生まれた幸せの一部は間違いなくこの歌の中にある。晴れ、晴れ、ハレルヤ、晴れる、ハレルヤ。「hallelujah」っていう神へ感謝を捧げる祈りの発語は、今僕が日記を書くのに用いているこの言語体系の中でだけ、絶望と闇の中「明日は晴れる」「この霧は晴れる」とうそぶいてみせる気高い意思に姿を変える。hallelujah!/晴れるや!というリフレインが始まる直前の歌詞はこうだ。
   僕は世の中を儚気に歌うだけのちっちゃな男じゃなく
   太陽が一日中雲に覆われてたって 代わって君に光を射す
   優秀に暮らしていこうとするよりも 君らしい不完全さを愛したい
   マイナスからプラスへ 座標軸を渡って 無限の希望を
   愛を 夢を 奪いに行こう 捕らえに行こう
この、貪欲過ぎるまでの<君>への欲望、それはあるいは神の否定でもあって(じゃなかったら太陽になり、不完全さに愛を注ぎ、無限を手に入れる、そういう世界の秩序をないがせにするようなことはとても言えない)、でも神を否定するってことは結局自分もそういう存在にはなれないって宣言してるってことで、そんな語義レベルでの不可能生を孕んだ絶望の中発せられる(「敢えて行う」って意味での)再帰的な叫び。それこそがhallelujah!/晴れるや!なんだと思う。思うってだけで理屈なんかどうでもいいからね。とにかく僕は何となくそう思って「halleujah」を聞いている。
思えば「くるみ」「蘇生」「hallelujah」ってのは全部「避けられぬ、特に現代においては生まれた時からすでに所与のものですらある<死>。そこからの再帰的な再起」がテーマだ。この「再帰的」ってのが、まあ言葉は「方法的」でも「敢えて」でも何でもいいにせよ、とにかくそういうのが今の僕にとって(何でだかは言葉にできなくて自分でも不思議なんだけど)非常に重要かつ切実なテーマで、だからこそ心に響いたのかもしれない。たとえ負け戦だって分かってても「出会いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える」「何度でも 何度でも 僕は生まれ変わって行ける」って叫ぶ。
そうだ、今日のライブ、「蘇生」の歌詞が「何度でも 何度でも 『君は』生まれ変わって行ける」って変わってたな。やっぱりライブはそうじゃなくちゃいけない。


それにしてもミスチルは年をとった。桜井さんの笑顔のしわには年齢だけじゃなくて、きっと色々なものが刻まれていて、だからこそあんなにやさしく魅力的だった。
ファンである僕も年をとった。ミスチルと出会ってからもう10年以上が軽々経っている。10年前に聞いたあの曲もこの曲も、まるで違った意味で僕に届く。
チケットが高くて中高生の経済力や情報収集力では中々足を運ぶのが難しいライブではあったとは思うけど、今日のメインの客層はやっぱり20代中盤前後だったわけで、まあそれは僕もその例に漏れずど真ん中25才。それは「Cross Road」や「Innocent World」が音楽の原体験として色濃く根付いている世代、「over」を聞いては涙し、『深海』をレコードでもないのにすり切れるんじゃないかってくらいに聞いた世代。今でもカラオケ言ったら「抱きしめたい」を歌う、ついついミスチルを鼻歌ってしまう、そんな風にしてもはや身体的にすらミスチルを消費し血肉化している僕ら。今後、多少経済力にも余裕が出てきて、ミスチルがアルバム出したら、出したってだけでCD買っちゃうような年代。
生まれたてと言うには少しばかり年を重ね過ぎた僕らの前には、それを信じてれば何も恐れずにいられるような果てしない未来、それを信じたまま甘い恋をしていられるような美しい予感、そんなはもはやどこにもなくって、あるわけなくって、それでもさらに年をとっていかなくちゃならない。だから僕は(僕らは?)ミスチルを聞くんだと思う。
同じように年をとり、悩み、とまどい、笑ってきた僕たちのバンド。無邪気な笑顔を同じように失い、代わりの何かを身につけてきた(身につけてきたと信じ込むしかない)、そんな僕たちのバンド。「僕たちの」というとてつもなく重くやっかいな共同幻想を背負い、ポップスの神にその身を供し「ハレルヤ」という再起/再帰の祈りであり叫びを捧げるバンド。
僕の生きてきたこの道にミスチルがあって本当によかった。ひょっとしたらこの先ミスチルが解散してしまったりするかもしれないけど、その時まで僕はずっとミスチルを聞き続けるんだろう。きっともう、あの頃の熱心さで聞ける、ちっぽけな実存を賭け金にひたすら愛した「Atomic Heart」「深海(マイフェイバリット!)」のようなアルバムは生まれない。どんな曲の歌詞もおぼえてしまうくらいまで何度も何度もアルバムを繰り返し聞くことはくて、「I love you」だって極端な話、今年買ったアルバムのワンオブに過ぎない。でも、明らかに、特別。それが共に年を経てきた、10年を超える年月の意味なのだと思う。


最高の、最高のライブだった。