語ることのままならない恥ずかしさについて

ディスコ探偵の第2部読み終わった。相変わらずおもしれえなあ。


感想文を書こうとするとどうしても感動や感慨やあれやこれやを言葉にする必要があって、それって感想をリニアな(しかも、時に一元的ですらある)文脈に固定させてしまうことで、僕の内面に訪れた複雑で豊かな変化の多くの部分が捨象されてしまう。
「感想を書くこと」の恐ろしさが最近すごく気になる。
なわけでまあ、「おもしれえなあ」くらいの感想が丁度いい湯加減な気もするし、でもそれだと体があったまりきらないからきちんと自分の内面と、言葉を呼び水にきちんと格闘しておく必要性も強く感じる。


どうすればいいんでしょうね。


そうそう、あさのいにおの新作「ソラニン」( ISBN:4091533213)もなかなかよかった。今回の舞台は和泉多摩川小田急ばんざい。
ストーリーにややステレオタイプな展開、お約束に対する無反省が目立つようになった気がする(週刊誌で書いてるせい?)けど、それより何よりマンガを書くのが上手くなったと思う。ただ、キャラの描線がすっきりしてべた塗りトーン一発が多くなったけど(これも週刊誌連載の影響かな)、そういう絵柄の変化はこの人がすごく得意な日情のニュアンス書き分けとかちっちゃいけど確かな心の機微をなくしてしまっているかなあと思った。
あと、作品を追うに、やはり同世代だからなのか、考えていることの変化や内面の成長がすごくシンクロしていて面白い。


ああこうやって結局感想書いちゃうな、だらだらと周辺の雑音を切り取って単純化したアホみたいな感想を。反省のないだらだら感想書きはホントよくない。作品をバカにしてることになるし何より、自分がどんどんバカになる。バカになっても構わないという考え方もあるだろうけど、感性がにぶいとか、頭を自分が使いたいと思う場面で使えないとか内面化された他者が摩耗しているとか。そういう意味でバカになるのは絶対嫌だ(良い意味での「バカ」は大歓迎)。何かを言葉にすることのリスク、今書いている文脈では触れてこなかったけどさらに言えば恥ずかしさや後ろめたさ、すわりの悪さ。それらに無関心でいたくない、いや、積極的に敏感でいたいと思う。
と思うのに頭使わないで事物を単純化して一元的な語りでくくることをやめられないんだよなあ。今もこうやって呆れるほどの鈍感さでキーボードを打ってるわけだし。困ったなあ。
言葉にすることのプラスとマイナスの加重均衡点を上手いことみつけられないものだろうか。まあそんな均衡点なんてあるわけはなくて、そもそもそんな虚数解を自分が本当に求めているのかって言われれば答えはノーアイドント、今の僕は多分「言葉遊び」として現在の状況を楽しんでいるだけ、いややっぱりそれなりに思い悩み切実にその悩みを言葉にしようとしているだけ、ってほらまた言葉だ言葉。反省という名の言語化を繰り返すほどに言語化という名の無反省に陥り、そこから脱却するには残念ながら反省を繰り返すしかないみたいだよああ困った。


舞城王太郎は、そういう反省/無反省ととことんまで向かい合っていると思った。
以上、ディスコ探偵の感想でした。