あたし

なぜaikoの新譜のタイトルは「彼」ではなく「彼女」だったのだろう?

最近は勉強しながら狂ったようにaikoばかり聞いているのだけれど、聞けば聞くほど歌詞が怖い。あたし、あたし、あたし、あたし。あたしの気持ち、あたしの前髪、あたしのため息。彼のことが好きなあたし、彼をこんな風なやり方で見ているあたし、彼のしぐさにいちいち一喜一憂するあたし。
もちろん好きな「あなた」のことを歌っている場面もあるけれど、それはひるがえって「彼からあたしはどう見られているだろう/思われているだろう」「あたしは彼からこう見られたい/思われたい」の鏡うつしで、そこで実質的に扱われている主題はやはり私の内面、すなわち「あたし」であるように思える。あたしの気持ち、あなたの背中、あたしのため息。

だってaikoの歌詞は全部「あたし」が主人公なんだから、彼の気持ちが実際どうなのかなんて歌えるわけないじゃん。そういう反論はもちろん可能だと思う。彼女が歌詞に徹頭徹尾「あたし」という一人称を採用している以上「あなた」の内面に立ち入ることができるはずもなし、何を歌おうが「あたし」の物語を紡ぐことになるのも当然じゃないかという声。
それはもちろん確かにその通りだけれど、その一人称スタイルを彼女自身が選びとったことに違いはなく、またそのスタイルこそがaikoの歌の持つかきむしられるほどの「恋愛誘発力(by 菊地成孔)」を産みだす重要なファクターの1つである以上、やはりこれは見逃すことのできない問題なのではないか。
彼女が歌うのは、「あなた」ではなく「あたし」のことだ。「あたし(主体)」から発せられた気持ちは「あなた」を経由して回帰し「あたし(客体)」に投射される。「あなた」とは、一人称の「あたし」が三人称の「あたし」を思うために必要な鏡・姿見にすぎない。

だからこそ。
だからこそ新譜のタイトルは「彼」(=「あなた」)ではなく「彼女」(=「あたし」)だった。

aikoは今日も「あなた」のことを愛おしく思い、願う。「好き」という気持ちを歌に乗せる。しかし上で見てきたように「あなた」とはその実、「あたし」を「「あなた」の「あなた」」にするために採用された、単なる媒介変数だ。だからつまり「あなた」は、感情投射の終着駅でないというのであって、どう考えても「好き」の対象として機能していない。
むしろ彼女が(彼女の歌に共感を覚える人たちが)愛して止まないのは、「あなた」のことを考えてはあれこれ悩み揺さぶられ焦がれる「あたし」なのではないかしら。なぜって、彼女(彼女たち)は相手が何を言おうが何をしようが、結局は自分のこと、「あたし」のことばかりを歌ってているのだもの。

しかし同時に、「あなた」というメディアが「あたし」に生の充実と日々の喜びを確として与えるということ、「あなた」がいて初めて「あたし」という主体/客体が駆動するということも、まぎれもない事実だと思う。そのような存在は今の「あたし」にとって唯一で、「あなた」がいなければ「あたし」は「あたし」になれない/でいられない。「あなた」こそが圧倒的にかけがえないし、愛おしい。「あたし」の水であり光であり重力であり…「あなた」は世界でもっとも美しく正しい。

…ってあれ、それってやっぱり「好き」ってことじゃん。うーむ、考えがぐるぐると回る。

ああ、考えが整理されないままに推敲もほとんどしないで思うがまま書いてしまったけれど、本当に無茶苦茶書いているな。思考力と文章力…。