名前

具体的な事物やその名称に心から興味がわかない。事物の輪郭をぼんやり捕らえられればそれで満足で、ものの名前をおぼえようという気持ちが根本的な所で欠如しているような気がする。


例えば今日アンデルセン(パン屋)の前を通った時、焼きたてのパンたちがあまりに美味しそうで右へ左へ10分以上散々目移りしたにも関わらず、今振り返ってどんなパンがあったのか、具体的な名前を一つとして思い出すことができない。ソーセージを巻いたテカっているやつ、フカフカしたさつまいもが入っているやつくらいの認識が精一杯だ。昨日のエントリのコメント欄にある通り、後輩がはいていたブーツの色もすっかり間違えていた。少々洒落た飲食店に入っても調味料や調理法をおぼえられない(おぼえようとしない)から「あの辛いの」「赤と黄色が混じったの」などと言い出す始末だ。
ビールは好きだけれどその製法や産地の違いを逐一覚える気には到底なれないし、美味しいご飯屋さんの名前を列挙することなんて夢のような話。花の名前・季節に通じ四季折々を楽しめる人、洋服のブランドで自分の意味づけをプロデュースできる人など、もはや尊敬の域にある。


具体例を多く知る人はそれぞれに宿る意味の違いを感じるのにとても長けていて、AとBとCの間に眠る豊かな色彩の相違を感じ取り、それを歓びへ変換することができる。ように見える(正直想像もつかない)。たんなるうんちくに陥ってしまっては仕方ないが、それにしてもモノの名前一つで場の空気を変えたり、モノの名前を連ねることで大きな全体像を描いてみせたり。それは僕にとってまさに奇跡と呼ぶに相応しい、ある種の魔法だ。


僕はむしろ「構造」としてのアナロジーを気にしてばかり、まあ有り体に言えば「ダジャレ」ばかり考えている。音韻遊びとしてのダジャレだけではなくて、構造の類似そのものを遊ぶのがとにかく好きだ。
構造的に事物を捉えることがベクトル図で輪郭を得ることなのだとしたら、具体的なモノの名前を積み重ねることはビットマップ、点描に似ているのかなあと思う。一つ一つの点自体に意味はなくてもそれらが積み重なると溢れんばかりの色彩とリアリティで世界を再現できる。僕のようなものごとの構造ばかりを見ては悦に入る類の輩にとって(まあそれすら上手く行っていないけれど)、彼ら/彼女らの感性は本当に豊かでまばゆいものに映る。
ものごとの名前を知り、意味を知り、差異を知り(意味を知るのと同じことか…)。同じ風景をより鮮やかに。言葉をこねくり回すのではなくて、具体例こそを最大のレトリックに。できればどれだけ幸せかと思うけれど、一生かかってもそんなことは不可能な気がしてならない。