Mステ・スーパーライブ

ミュージックステーションミスチルを観ていて思ったのだけれど、というか最近ずっと思っていたのだけれど『しるし』に至ってはその傾向ここに極まれりというか、桜井和寿は今や「自立語としてのポップソング」という、エゴに満ち満ちた尊大にもほどがある(だからこそ圧倒的に感動的な)作品を作ろうとしているのではないだろうか。


楽曲があり歌い手があり聞き手があり、そして聞き手の中にはその歌に添い寝するそれぞれの思い出があり、だからつまり人それぞれ想起する風景が違う、重ねる感情が違う。つまり、その魅力の大きな部分を聞き手に依存している。というポップソングの基本フォーマットを桜井和寿の作る曲は今や飛び出そうとしている、飛び出すことを欲望している。
「誰が聞いても同じように感動できる」と言えば良いのか、「この場所で胸を振るわせ、ジワジワと気持ちを盛り上げたかと思えば感想で一端落ち着き、そしてまさかの転調大サビ!号泣!」なる泣きのフォーマット(泣きでなくても良いが、ともかく桜井和寿が狙ったとおりの感情の起伏)をそのまま追体験させるという意味において、圧倒的な強度を誇る楽曲。それは「作品」としての完成形とでも言おうか、聞き手依存性が限りなくゼロでに近いという点で清々しいまでにエゴイスティックで「自立した」楽曲、すなわちポップ・ミュージックの神に対する挑戦状だ。


「ほら、一曲でここまで泣き笑いできてこの曲最高でしょ?最高に良くできた作品でしょ?そのまま味わって味わって」と、他の解釈の可能性を決して許さない「最上の感動」がそこには用意されている。それは悪く言えば本来解釈の自由が「ウリ」であるはずのポップ・カルチャーの原義を無視した愚行だ。
無論、良く言えばそれは、天に唾し聴衆に身を捧げてまでも我々に泣き笑いを提供することを優先する「無上の愛」と言うこともできるだろう。覚悟の桁が違う。桜井和寿は一人、「自身の思いを最高の作品に乗せ発信しなければならない。なぜならそれがもっとも人の心を振るわせるに違いないし、違いない」と信じなければならないという、ポップ・ザウルスとしての責務・宿命を背負う。


本当に、心から暴力的にいい歌だな。こっちがどれだけ拒んでも決してそれを許さず心をこじ開ける。「最初からこうなることが決まってたみたいに」「どうせ愛してしまうと思うんだ」これはある意味『しるし』に対する『しるし』からの出来すぎた自己言及であるように思う。