納豆

今更「発掘!あるある大事典」の納豆ダイエット問題について書くのもどうかと自分でも思うのだけれど、やはり違和感をぬぐいきれない。マスコミは適当な情報ばっかり流すし、それを信じる世の中の人々のメディア・リテラシーの低さは目に余る。という声がすごく気持ち悪いのだ。何なのだろうか、彼らのその「達観」した態度は。
マスコミの信憑性も何もあったもんじゃないような話にほいほい騙されて納豆買い漁るなんて、まったくお恥ずかしい話ですよね。まあ僕は元々アヤシイって思ってましたし、むしろ納豆買えなくて飛んだとばっちりでしたよー、ハハハ。
ここ数日、ブログやSNSを見る限りではおよそこのような日記が溢れかえっているわけだけれど、どうにもしっくり来なくて(もっと言えばムカついて)あれこれ考えてみた。


まず、彼らは実際に「あるある」を見たのだろうか。見たら偉いとか発言権があるというわけでもないが、実際にあの番組を見ていた立場からするとあの番組には相当な「説得力」があった。それは確かに理詰めの、例えば大学で要求されるようなレベルでの論理性はまるでない眉唾もののストーリーではあったけれど、「この話を信じてみたい」と思わせる、そのような意味での「説得力」は十分持っていたように思う。今まで納豆を食べて別段やせなかったのは食べ方に問題があったのです!1日に朝夜2回納豆を食べればいいんです*1!という衝撃の「事実」を突きつけられ、多くの人が「その話を信じたい」と思ったというのも頷けない話ではない。「信じさせる」ではなくて「信じたいと思わせる」、この点においてあるあるは破格ですごかった。どのくらいすごかったは次の日のスーパーに行った人なら全員分かるはずだ。


なお、当然ながら私は納豆なんぞ買っていない。


信じたい信じたくないというレベルではなく、あれを見て内容を信じてしまうだなんてものごとを順序立てて理解する能力が欠落している証ではないか。理屈として正しくないことを正しくないと見破れない人の多いことが問題なのだ。と言う人もいるだろうけれど、理屈として正しいことが他の何より「正しい」だなんて誰が決めたのか。正しさには色々な尺度があって良いだろう。あの番組を見て納豆を買った人に対して「まーその気持ちもわかるわ」と言うことの方がたとえば「人情」としては正しいのであって、それを、達観した立場から「メディア・リテラシー」うんぬんだなんてハッキリ言って無粋以外の何ものでもない。
理屈の審判で「信じたい」を否決できなかったことをあなたは笑えるのか。好きな子がたまたま2回続けて授業で隣に座っただけで、気になるあの人が向こうから映画に誘ってきただけで「あ、向こうもこっちに気があるのかも」と信じ込もうとしたことはないだろうか。「納豆毎日2つ食べたらやせるかもしれない」だってそれと同根だろう。


なお、当然ながら私は納豆なんぞ買っていない。


もう一つ、「全く大衆はどうしようもないな」的な発言をする人って「信じることは行動すること」とという前提を無意識のうちに使ってしまっているように見える。お前ら、あの番組を信じたから納豆買ったんだろ?という。
何となくの話になってしまうのだけれど、テレビを見た100万人が「6割」信じたとする。まあホントかどうかは分からないけれどそんなこともあるんだなあ。すごいなあ。くらいに思ったという意味での「6割」。すると納豆は60万個(1日2個だから120万個)売れることになるのだが、それを「テレビを見てあの内容を信じた人が60万人もいるなんて、これだから知性のないやつは!」と言うのはちょっと違うだろう。「100万人が6割信じた」を「60万人が10割信じて(=納豆を買って)40万人は少しも信じなかった(=買ってない)」と単純に考えていそうな、そういう気持ちの悪さを感じる。Aを支持したらAを実行し、Aを支持しなければAをすることはない。というあまりに単純で機械的な人間理解は実に不気味だ。人ってもっと曖昧なものではないのかな。
もちろん「100万人が6割信じた」だって「60万人」を縦割りするか横割りするかの違いがあるだけなので「60万人が10割信じた」と同レベルかそれ以上に馬鹿げたことを述べているのだが、ともかく「60万人」を一義的に「信じた奴が60万人」とすることはおかしいと言うことはできるだろう。


また、「あんな番組を信じるなんて」「これだから教養のない人は」と理性の刃を振りかざす人はとどのつまり自分のすごさをアピールしたいだけ、松本人志風に言えば「どや顔」をしたいだけなのではないか。なる気持ち悪さもある。信じなかったあたしすごい!や、僕にはメディアに騙されないだけの知性がありますよ!を自慢するがために、納豆を素直に買い求めた人たちの人格を生け贄にしているような印象を受ける。人をバカにすることで「高み」に上って、そこからは何が見渡せるのだろう。
理詰めで説明できるものしか信じない、という態度は「負けない」ための戦略としても極めて有効だ。後になってそれが事実ではなかったと明らかになったとき(今回のあるある問題みたいなの)には「ほらね、あやしいと思ったんだ」と自分のポジションを守ることができるし、実際に正しいと証明されたときにも「そう思ってたんだけれど、あの時はデータが足りなかったからね」とプライドを堅守することが可能。「正しいことしか信じない」とは自身の自我にとって何と安らかで心休まる場所であることか!
あははー、俺アホだから納豆信じちゃったよ!で別にいいじゃないか。そう思えてならない。


何度でも言おう、私は納豆など一切買っていない。


話が大きくなりすぎたしとっ散らかり過ぎたけれど、とにかく、「俺は信じてなかったけどね。世の中にはああいうの信じちゃった人がいっぱいいるんだね」という態度は、誰からも理屈で否定されないだけに今非常につけあがっており、見ていてすごく違和感がある。番組にのせられて納豆買って何が悪いんだ。あの番組を見て納豆を買った人は声を大にして今こそ蜂起すべきだ。


なお最後に確認しておくが、私は納豆なんて。

*1:「2回」という点をきちんとおさえられているニュースが少ない。この「2回」という部分こそが最大のアクロバットで、考えてみたら誰も一日2回納豆食ってないしこれはホントかもしれない!という気持ちこそが今回の騒動に火を付けた一番大切なポイントであるように思える。