鬼が泣く

規格外に愛想の良い店員さんというのは大抵どの店にも一人はいるもので、そのケタ外れで型やぶりなホスピタリティは、またたく間に私を王侯貴族にしてくれる。本郷通り吉野家にも、いる。店舗側が想定した「マニュアル接客」の枠を軽々と打ち破りつづける、懇切丁寧かつ元気ハツラツとし過ぎた「接客態度の鬼」がいる。イメージがわかなければ、鼻血が出るまでオロナミンCを飲み続けた勝俣州和でも想像してもらえれば良い。とにかく、彼の勤める日に入り口をくぐると、そこに広がるのは吉野家ではなくシェ・ヨシノだ。


いらっしゃいマセー!豚キムチ丼ツユ抜きでご注文いただきマシター!お茶をお持ち致シマシター、お暑いのでお気を付けクダサーイ!580円頂戴いたしましたのでイチ、ニイ、200円のお返しとなりますご確認クダサイー!うーむ、気分は王侯貴族。シェ・ヨシノ。ちゃんとしたフレンチを訪ねたことはないけれど、多分こんな感じなのだろう。
木訥とした風貌にそぐわぬ圧倒的な語尾カタカナぶり、及び悪意ゼロで重厚かつ慇懃かつ懇切丁寧な身振りは常に最敬礼。それはまさに「接客の鬼」と呼ぶに相応しく、ともすればもてなされているはずのこちらがひるんでしまう。なんか、ごめんなさい…そう思わせずにはいられないという意味では、接客の「泣いた赤鬼」レベルですらある。当然ながらツノツノ1本である。彼が動くたびに小鳥はさえずりを止め、風の音色が変わり、時の因果律がみだれる。これが才能でなかったら何が才能なのかと思う。


私はこういう空気読まない系の店員さんが好きだ。なんだか好きだ。
正直に言えば私だって吉野家では「ざっくばらんに」ご飯を食べたい。ささっと頼みささっと食しお会計もちゃちゃっと済ませさっそうと店を後にしたい。わずらわしくなさ、というのは吉野家の大きなポイントの一つだから。店側にもそういう配慮があるように感じるし、かくして客と店の共犯関係はひとつの空気を作り上げている。しかしそのような阿吽を軽々と打ち破り、店の思惑も客の要望もはるかに超えたパワーで常に全力投球をしてくる「その男、接客レベル規格外につき」な男がいるとその奇妙さゆえの美しさというか、負のダイヤモンド独特の魅力に、気が付けばほだされている。5分前までうざったいことこの上なかったはずの語尾マセー!にどんどんと、ウキウキは高まる。というかごめん、好きだ。もうこの人のことが大好きだ。


一方これと対極にあるのがたとえばスタバなんかの接客で、私はこれがどうにも苦手だ。あの手のカフェの接客ぶりは丁寧で愛想もよく店の雰囲気にもマッチしておりまことに申し分ない。こちらに一切の不快感を与えない、店員さんの「顔」を意識させないという意味において完璧だ。しかし、そこでもたらされるサービスは私から見るに何というか「枠内」なのであり、おそらくはスタバの想定した接客レベルの範囲内でほほ笑み、フレンドリーに話しかけてきてくれているだけのようにも思えてしまう。最敬礼しながら全力で盆を前方に突き出し「豚あいがけカレーお持ちいたしマシター!」とカレーを運んでくる赤鬼風スタバ店員さんを私は寡聞にして知らない。そもそもスタバではカレーも豚丼も出てこない。


完璧なマニュアルに裏打ちされた、「自然」な笑顔で親身にくりだされる接客は心持ちが良いものだけれど、空気を読めない赤鬼に一度出会うと結局そちらの方が印象に残ったりする。完璧なマニュアルが才能どころか「負の才能」に凌駕されてしまうあたり、不思議なものだと思う。