春をやどす

あたたかい。あたたかすぎるくらいにあたたかい。小雨のちらつく河口湖付近はやや肌寒かったが東京に戻ってみるとどうだ。実に心地よい春暖のひよりだ。
帰路にあって手嶌葵『テルーの唄』は「心オナニーにたとえよう」に聞こえるんだぜ(私は知らなかったけれど結構有名な話らしい)だの、つうか元の歌詞どおり「心をナニにたとえよう」でも同じことじゃね?ひどい歌詞だなまったく、だの頭に花が咲いたような会話がぼんやりとなされていたこともこの陽気ではしかたあるまい。ふく風もごうごうと強い。どうやら春の訪れを知らせるのは花と風らしいことを私は経験則と実証の精神でつかみとっている。


心をナニ、すなわち陰茎にたとえる心理状態としてどのようなものが想定されるのか。俺のちっぽけなプライドなんて所詮はチンチンみたいなものだよ。あたしの、この胸のモヤモヤはきっとふくらむ少し前のチンコみたいなものだとおもう。あいつの内面にはいわばチンポのたぐいがすくっているからな。などということばたちはいついかなる外的・内的誘因において必然性をおびるだろう。


陰茎はカゲのクキと書く。日陰に生える植物はその成長が悪く、みごとな茎とならない上にはれて花を咲かせる可能性も低い。結果、男性の股間にはいつまでも春が訪れないはこびとなる。先に述べた通り春とは花と風のもたらすものなのだ。かといってこの現代社会において、たくましい幹をそだて季節を告げる花弁をつけるためとはいえ、日なたに陰茎をさらすことにはきわだった困難が伴う。花に関する見通しは暗そうだ。
股間に春を呼ぶもう一つのファクター、すなわちやわらかな緑のにおう風に関しては風呂上がりに扇風機、そしてさわやかな香り系のファブリーズでどうにかなると予想される。いちかばちかの賭けにはなるがゼロよりははるかに良い可能性が得られるだろう。だがしかしこだわるようだが充分な太陽の光が得られない以上いつまでも花は咲かない。片手落ちの股間に春はとおけき夢のはてだ。


以上の考察をもってすればナニ、すなわち陰茎にたとえられた心には、春がすっぽりと抜け落ちていると言える。「カゲのクキ」なのだから。では陰茎以外のものにたとえられる心には春が宿るのかといえば、必ずしもそうではないだろう。春めいた心もちのメカニズムは神秘につつまれていて、容易にその正体をあらわにしない。春をやどすのか春がやどるのか。それはわからないけれど、あたたかな今日のひよりはほんのわずか心に春を知らせたように思う。