ウソホント

はじまりのはじまり、「ことば」が各地で同時多発的に発生したのかそれともひとつのある所で発生したのかそんなことは知らないけれど、ことばがうまれればそこにはやがてウソが実をむすぶ。さて果たして、人類最初のウソはひとを傷つけるものだったのだろうか、それとも。ひとを幸せにするものだったのだろうか。薄給の私ではあるけれどここはひとつ後者にめいっぱいの掛け金を置こうと思う。


自己を利するためのウソはどこかでひとを傷つけ、他者に損害をもたらす。自分が得をするために誰かが損をしたりかなしみに暮れたり、周囲の犠牲の上にみずからの利ざやを濡れ手につかんだり。幸のうらには必ず不幸がある。それを私はウソとホントの質量保存則と呼びたい。この世界を司る法則はあまたあるけれど、ウソに関するこの保存則だってもちろんひとつのホント、真実のかげ絵だ。


人を幸せにするウソが世の中にはある。それでも最後にやさしくほほえむこと、人の悲しみに気付いていないふりをすること、最後の葉っぱを散らさないこと。「もう寝ちゃった?」にウソ寝で答える背中がかえがたい幸福を二人に運ぶ。目の前のこいつをしあわせにするためなら地球だって裏切るぜ、現実なんて見えてないことにしてやるぜ。この人は今とびきりやさしいウソをついてくれているんだから、とびきりの誠実なウソをもってそのウソにだまされてあげよう。そんなふうにして互いの思いやりが互いにうまく駆動するシーンを想像してみる。ウソをついてしあわせ、つかれてしあわせ。どうだろう気が付けばウィンウィンゲームではないか。ウソとホントの質量保存則を無視した、幸せの足し算がそこにある。


ということはやはり、「ウソ」として筋が通っているのはひとを幸せにする方のウソだということになる。現実の法則にすらウソをつけるたくましさがそこには見え隠れ。つまり幸の裏にも幸がある点で、世界のきまりごとにすら「ウソ」をついているわけだ。
ウソをついたら誰かがぐっすん。それではあまりに当たり前すぎて、言ってみれば現実味がありすぎる。世の中の真実ルールに徹頭徹尾のっとっている点で、そのウソは「ウソ」として三流と言わざるをえない。ウソのくせにウソとホントの保存則を遵守、すなわち「ホント」に過ぎる現象なのだもの。
ウソをついたらついたらつかれたあの子もついた自分もほほえむ、そんな、保存則を無視したふるまいこそが世界に対するいっとうしょうのまっすぐな、定義として正しくまっとうな「ウソ」なのではないか。アイウィッシュ。どうせつくなら世界を敵に回してでもウソの「ウソ」さに願いを託したい。ウソを「ウソ」として咲かせることができるのは、相手を思いやる気持ちなのだ。


久しぶりにいいことを言った。アイウィッシュ。ウソでもいいから私に惚れてほしい。