アカフク

在庫の製造日時偽造やら出荷済み商品の冷解凍再出荷やらで赤福本社工場が無期限の営業停止になったということで。しばらく赤福が口に入らなくなるのだろうか、残念だ。正直いって赤福なんてあってもなくてもどうでもいい食べもので、でも食べたらけっこう美味しいからおみやげにはちょうど良い、まあ「ほどほど」な食べものだ。そのぬるま湯感も手伝って自分から買いにいったりはしないけれど立ち寄ったらまあ買うよね、もらったらまあ嬉しいよね、そんなおみやげものとして不動の地位を得ているのだろう。厳格な品質保証を求めているわけではないし、いただいてお腹を壊したりさえしないのならば、製造日や賞味期限なんてどうだっていい。


誰も、少なくとも僕は、赤福に厳密な商品として事務手続き的な完璧さなんて求めていない。健康に害がなければ再解凍していようと期日に嘘があろうと、そんなことは大した話ではない。だって赤福食べたら美味しいし1,200円だか1,500円の料金に期待しているのは別に商品そのものとしての価値というよりも、「三重方面に行ってきましたよー」「赤福もらっていやな気持ちになる人いないでしょ、僕も好きだしきっと君も好きだしだからみんな幸せなのさ」みたいなダイレクトなメッセージや、おみやげを渡せるくらいにあなたのことを大事に思っていますというメタ・メッセージの伝達。そういったものではないだろうか。もちろん体に悪くないことが大前提だけれど。


当直中の僕の耳にも入ってきたくらいだから「赤福けしからん!」といった風潮の報道はそうとうに猛威を振るっているのだろうけれど、ジャーナリストの方々はそこに隠されていた真実をついて何がしたいのか。赤福の不正を暴いたところでそれがぐっと美味しくなるわけではないし、値段が安くなるわけではないし、それどころか僕らは赤福を食べられなくなってしまうっぽい。つまり消費者は何も得をしないどころかみんながそこそこ好きで贈ればぼちぼち喜ばれる絶妙の銘菓をひとつ失おうとしている。世の中に存在しようがしまいが知ったことではない、けれどいただけるのなら確かに嬉しい、そんなぼちぼち具合が赤福の魅力だったのに。正義を主張するのも結構だけれど、振りかざされた社会正義は時に傍若無人だ。


どうにも世間の赤福への拒否反応というのは、賞味期限うんぬんというよりも「だまされていた」という事実そのものに端を発しているように思えてならない。「ほのぼのとしたお菓子屋さん」だと勝手に信じておいて、それがくつがえされるや手のひらを返して「赤福ゆるさん!」となる。自分よりも格下だと思っていた飼い犬が自分を欺いていたという事実をうけ、高すぎる自分のプライドが許さないから飼い犬に腹を立てている。そんな防衛機制さえも想定される。騙されていた(しかも赤福ごときに!)自分への怒りを反転させて赤福に向けているというか。
そりゃあ許されないことをしたし、嘘がばれた以上赤福の罪は重い。だけれど、私としては賞味期限に嘘があろうと何だろうと世間はそれに気付かず赤福が今日もどこかで流通し、様々な口へと運ばれている世の中の方が好きだった。