倒置

腟内に下垂した子宮がついには外界へはみ出す、つまり子宮脱という疾患があるが、ここは思い切って「脱・子宮」と呼ぶこととしたい。まずひとつ、「脱構築」「脱ダム」などのキャッチフレーズのあるように「脱○○」といいう音の響きは文句なく格好が良い。さらにささやかな可能性を付け加えることを許されるならばこの名こそが、はみ出した子宮が胸の内に秘めていた「俺はこんな場所に収まっていられないぜ」「俺の居場所はこんなちっぽけな街じゃねえ、東京へ行くんだ」という勢いと輝きを表すのに一等ふさわしいように思うのだ。


上の例でなぜ子宮の一人称を「俺」にしてしまったのか我ながら悩ましいばかりだが、ここに見る私の無意識はおそらくリボンの騎士やオスカルといった「セックスは女・ジェンダーは男」を子宮に投影している。そう読むのが妥当な線だろう。小中学生の頃、学年に一定数は自分のことを「僕」「俺」と称する女生徒がいたもので、それは得てして切ないくらいにイタい光景だったが、未だ確立せぬジェンダーのゆらぎと共に脱子宮への秘められた予感が彼女たちをそうさせていたのかもしれない。
子宮を脱した脱子宮は叢を分け入り荒野を行く。子宮でありながら子宮を子宮に縛り付けていた境界線を越えて突き進む。俺は確かに子宮として産まれたけれど子宮だけでない様々な可能性を試してみたいんだ。そんな越境と克己のイメージ。括約筋群が緩んできたせいで重力や腹圧に負けやむなく腟外に押し出されるといった受動的な印象を払拭、子宮に宿る野生の本能にも似た能動性をアピールすることができる。


以上は子宮という女性ならではの臓器に関するささやかな考察だったが話は直腸脱にももちろん当てはまり(女性に多いとはいえ男女共通の現象だ)、肛門から直腸が顔を出す疾患についてはこれを脱直腸と呼ぶ方がはるかにイカしている。肛門から出るのは何もウンコばかりではないんだぞという積極的な「外への意志」こそを「脱」の本質と考えることは、「誰が好きこのんでこんな病気なんかに…」と我が身に降りかかった疾患をただ嘆くよりもはるかに精神衛生上よろしかろう。括約筋のゆるみがもたらす直腸脱というネガティブなとらえ方よりも、やんちゃでワンパクで収まりきらない脱直腸の方がよほど好ましい。倒置法の可能性、それはまさに無限大。
ただし引っくり返せば何でも良いというわけではなく、たとえば帝王切開をひっくり返すと切開帝王となるが、これでは「切り開くのが世界一上手い/好きな人」という意味になってしまいまるで指示内容が変わってしまう。厳重な注意が必要だ。