みちくさ

イヴにはイヴらしいことを書かなくてはいけない。「クリスマスなんてキリスト教徒のうんたらかんたら」「聖夜がとんだ性夜だよ」と、浮かれたがりな人間の本性をくさす向きも世の中には随分と多いが、せっかく与えられたウキウキのチャンスを逃していてはサンタクロース様に申し訳が立たぬ。ここはひとつクリスマスらしいことを書いた方が良かろう。ということで「遠回り」について考えてみたい。
とはいえ、以下に書かれるであろう内容はクリスマスとの直截の関係はない。テーマは「遠回り」なのだから婉曲かつ迂遠をモットーに書き進めるつもりだ。


道を間違えたとき、実は遠回りと発覚したときに「損をした」「失敗した」と感じることは多い。移動・輸送に関する徹底的な効率主義者はときとして自らの(もしくは自分をエスコートする他人の)道先案内の不備に不快感をあらわにする。方向違いなどもってのほか、たとえ正しい道のりを進んだとしても「もっと効率の良い経路があったはずだ」と批判の精神を決して忘れない。あそこで右に曲がったから赤信号や踏切に捕まらずに済み得をしたね!愛してるぜ自分ベイベー!と効率的なアイデアに惜しみない賞賛を贈ることも重要な責務だ。
最短距離を行かぬことを「ロス」と考えるあり方、最速の乗り継ぎを見つけ出そうとする欲望。これらは全て「移動時間はゼロに近ければ近いほど良い」という発想に端を発しているように思う。たどり着くその場所こそが文字通りの「目的」地なのであって、そこに到るプロセスにかかる手間、時間はゼロに近ければ近いほど好ましい。「移動のプロセス」は手段に過ぎずその過程自体には意味などない。


たとえば家を出て最寄りの花小金井駅へ向かうことを考えてみる。いつもの私はiPodを聞きながら自転車をこぐ。歩けば15分かかるところをたったの5分で駅にたどり着く。嬉しい。しかもその道のりはお気に入りの楽曲や未だ聞かぬナンバーで満たされている。嬉しい。移動にかかる時間は10分より9分8分が、極論すればゼロが好ましいものだしたとえその時間はゼロにはならないとしてもあるいは新譜に旧譜、新調したてのiPodで空虚な移動時間に音楽鑑賞という名目を与えることは、移動の道すがらをかろうじで「有意義」へ昇華させる。


この考え方はきわめて貧しい。まずひとつ、移動という行為を「ゼロ」そのものとみなし、だからこそ移動の時間を極力なくしていこうという効率主義。この発想がそれ以上の枝葉を日々の生活、大袈裟に言えば人生という名の大きな幹から広げるはずなどないだろう。自動車教習所で誰もが習うように、速度の上昇は不可避的に視野の狭窄をもたらす。何もかもがこぼれ落ちる。行き先へ急ぐということ、それは移動のスピードをどこまでも上げ、道ばたに咲いた発見の種をひとつまたひとつと、それこそ死にものぐるいで根こそぎ無視するアクロバットだ。
「ゼロの代用品」として聞かれたiPodは音楽の正しく美しい喜びを決してもたらさない。この点にも十分な注意を払う必要がある。移動のついでに聞けたら得だから、そんな打算のもとにつまり空白の時間を空白にしないためだけに聞かれる音楽。通学・通勤・その他道すがら、私の場合移動の途中に音楽を聴くことはもはや強迫的なルーチンの位置を占めている。そんな聴き方は単なる「暇つぶし」に過ぎない。最高のリスニング環境でゆっくりとソファに腰掛け(ときには体を揺らすに充分なスペースを設け)スピーカーに耳を傾けることや、コンサート会場で生の音に触れ合うことだけが正しい音楽聴取方法であるなどとは決して思わないが、自転車をこぐ片手間に聞かれる音楽を私たちは時として、移動の無意味さを埋めるためだけの道具に貶めてしまう。だからこそ。


踊ることはできないだろうか。道行くその歩みのひとつひとつが目的として存在するとき、A点からB点への移動のあらゆる動作が意味であり意志を有するとき、それは歩行ではなく広義の「舞踏」だ。手段としての移動ではなく目的としての移動/舞踏だ。過程の集積からなり、それを構成する任意の要素が決して交換可能性を有さない、行き先に着いてみるまで決して完成の提示されない、時間が始まった瞬間から常に既に、現在進行形で語られ続けてきた移動/舞踏。移動の際に感知され実現されるあらゆる要素を可能な限り拾い、統合し、自身のひいては他者の魂にすら触れようとする原初のダンスを、踊る。


移動のプロセスにそんな意味を付与しうるだけの柳のようにしなやかな発想力と鋼のように強靱な胆力。つまり必要なのは「気の持ちよう」これだけだ。
特別な装備など何一ついらない。移動という結果のみを目指すのではなく、道行く行程の全てにアンテナをめぐらす。足音はビートだ。視界はそれだけで無形のファインダーだ。鳥の鳴き声と電車の音が心地よく聞こえたならば歩くテンポをわざとゆるめ、ときに速め、足取りと同期させる。空をひなびたオレンジに点描する柿の木に感じ入る。そこにはその瞬間だけの、複雑で単純な自分だけのリズムが、地面とリンクした音楽や描画の喜びが産み落とされる。


油断すればすぐに「ゼロ」になってしまう移動の過程の一歩一歩に喜びと感謝を。この一足、次に踏み出す一足の全てが、まさに今現前する「今、このとき」への祝福を奏でずして何のための歩行というのか。お気に入りのスニーカーでアスファルトを噛む感触が脊髄にもたらす弾力と味わいの妙味を愛する。そこがコンクリート敷きであろうと荒れ地や砂地あるいは深き密林であろうと。古き良きディズニー映画ではないが私の足が地を踏めばそこにいのちが芽生え、ひかり輝く花の咲き乱れるシーン。踏みしめた大地はたちまち花と緑に溢れる。その来し方、そして往く道のりは細くしかし途切れず続くたしかな一条の花畑となる。せっかく最寄り駅まで歩くのだ、せめてそのくらいのメルヘンチックな意気込みが求めてもバチはないだろう。足下に花を咲かせられるのは、頭に花が咲いたような馬鹿げていておめでたい心もちだけだ。ファンシー/ファンタジー/メルヘン。どのような言葉でそれを表すかは個々人の自由だが、とまれ私は身につけたい。移動の過程を無に帰させることのない、文法であり、作法を。


移動という行為のメルヘン化、それはおよそ容易なことではない。時間に追わればつい人は急ぐ。不可能と知りながらそれでも光の速さを超えて瞬間移動すらしたいと、移動の時間をゼロにしたいとはかなく願う。「移動時間ゼロ」を理想の状態に置くことから出発するがゆえ、「移動の意味もゼロ」という結論にたどり着き、結果無意識は「移動時間は短ければ短いほど良い」というテーゼを独善的に採用する。
メルヘン移動には「移動時間ゼロ」に比べはるかに手間暇と時間を要する。この意味でメルヘン化とは空間レベルかつ時間レベルでの「道草」と言える。道草。この言葉を否定的な意味で捉えてはいけない。道草。遠回りこそが徳であり美だ。道草。それは「草」という豊穣な生命のメタファー(それがたとえ雑草であっても)に満ちた、実りの魔法。


「この道のりは意味ゼロ」と考えながら仕方なく自転車をこぎ移動時間を少しでも短縮しようという生き方の、魂のあり方のどれ程貧しいことか。私は欲張り。どうせならあらゆる瞬間に驚きや発見を見出したい。不断の努力と決断によって実現される、血と鉄とに満ちたメルヘンを希求する。
それはサンタクロースを信じる気持ちと似ているのかもしれない。実在する/しないなど問題ではなく「サンタクロースはいるに決まっている」と全力で信じる泥くさいメルヘンこそが最重要だ。なればこそクリスマスには真実が宿り、聖夜の空は喜びの色に染まる。「敢えてサンタクロースを信じる」「ホントはいないと分かってるけれど、サンタさんはいるとうそぶく」のといった方法的メルヘンの話をしているのではない。そんな子供だましとはワケが違う。サンタクロースは疑いようもなくいる!絶対いるの!


自転車や自動車を使った効率の良い移動、速歩きを否定したいわけではない。道中にiPodを聞くなというのではない。社会の中で生活しているのだから時間に追われることはあるだろうし、移動中の音楽には独特のよろこびがあるのも確かな話だ。しかしあらゆる行為で意識の底に通う「メルヘン」の意識、これを身につけることはきわめて大切だろう。
一見意味のない、手段としての時間をすごさねばならぬに際し、意識の片隅にほんの少しだけでもお花畑が咲いていれば良い。普段の私たちが呼吸を意識しないように、ファンシーをも血肉化し無意識のレベルに落とし込めば、それだけで毎日は変わる。食事をとらなくてもある程度のインスリンは膵臓から基礎分泌される。これと相似形で、体内のどこかからファンタジーが湧き出る仕組みを作り上げることは私たちの精神恒常性を保つ上で、人生の一瞬一瞬をきらめかせる上で、言い尽くせぬほどに肝心だ。私はそう思うのよ。


絶対に残業をしない方法、ノルマの整理整頓術などの実用的な書籍やwebページが好評を博すことがままあるが、そうやって時間をかせごうとするのはそもそも発想のレベルで間違っている。少なくとも私はそのような考え方で日々を行きることを支持しない、支持したくない。
気乗りしない仕事、自分にとって無駄な労力、つまり「ゼロの作業」に時間をとられることを良しとしないのは私も同じだが、そこで「意味ゼロの時間をゼロに近づける」労力こそがまさに「ゼロ」であるように思えてならない。際限ないゼロの上積みがもたらすのはいつまでたっても金利の増さない永遠のゼロ。解決法はそこにはない。
ほとんど無意識化された「メルヘン」を生活のあらゆる場所に持ち込むことができたら、それこそはひとつの「答え」ではなかろうか。道のりは険しく一生をかけても理想的なメルヘンにたどり着くことなどできないだろうが、私の人生はまだ長い*1。それに何より、メルヘンに達する過程、移行のプロセスこそが「目的」だったではないか。メルヘンと名付けられた大いなる境地を目指す道草の一歩一歩こそが喜びに満ちたメルヘン。これは舞踏だ。終わりのないステップ。私たちは人生を踊る。


舶来のイベントに皆が飛びつくさまを嘆く皮肉屋の少年たちがいる。ムードに乗り切れないで疎外感を味わっている女の子たちがいる。クリスマス、大方の日本人にとってこのイベントに宗教的な意味はなく、人と人が喜び合い、コミュニケートする手段/方便に過ぎない。しかしクリスマスのもたらす何と無しの「おめでたさ」を目一杯楽しみたい。なぜなら毎日は「ゼロ」ではないから。空間的時間的なお花畑を「人生」と呼ぶのだから。
史上最長のエントリをもってして延々と言い訳をつらね言葉を飾り、自我の防衛に必死で努めなければ素直にこの言葉すら使えない私のシャイボーイっぷりすらをも「ファンタジー」として愛しつつ、その言葉は一体どのような意味を持つのか、むなしく空虚な浮かれ気分に酔っているだけではないのか。そんな批判を吹き飛ばし、泥にまみれた万感のメルヘンを込めて私は言いたい。メリー・クリスマス!*2

*1:急死の可能性もなくはないが、それを考えない(もしくは確率的に処理する)ことが社会生活を営む必要条件だ

*2:まだイヴだけれど