新宿残酷物語2008 その2


その1からの続き)

It's the fallin´in love that's makin' me high.
It's the being in love that makes me cry, cry, cry.


Carole Bayer Sagerは"It's the fallin' in love"からの引用で幕を開けた魂の叫び第2部、愛するビア・カフェbergが立ち退きの危機に晒されている昨今、私の胸に去来するやるせない心もちはまさにこの歌詞の通り。キャロル・ベイヤーも、お気に入りのパブが悪しき資本に屈せんとするあの時の、苦い思いを歌にしたに違いない。聞け万国の労働者!


ここで前回のおさらいをしておこう。新宿はルミネ・エスト地下1階に居を構えるいかしたビア・カフェberg(ベルク)は、テナント主ルミネからある日いきなり立ち退き要求を突きつけられた。コーション!コーション!
店子の反骨精神を大いに発揮し抗議の署名運動を始めたberg、血と酒とバイスブルストで書かれた連判状にもちろん名を連ねた私ではあったが、まだ足りない。まだやれることがあるはず、いや、やらなくてはならないはずだ。心の重要文化財、魅惑の駅前喫茶の存続がかかった大一番、石橋を叩いて叩き過ぎということはない。
様々な考察の末たどり着いた結論、それは「おはようの挨拶をやめることで時が止まる」というものだった。よしんばbergが撤退の憂き目にあった場合も、流れない時の中では立ち退き期日が永久に訪れないはずであるからして一件落着、bergは未来永劫ルミネの地下に存続し続ける。よっしゃ。
だがしかし困ったことが。あいさつをしない人間…それは社会人失格!確かにbergを守る献身と義勇の魂にウソ偽りは無いが、職場で爪弾きにされてしまってはままならぬしビール代にあてる日銭も稼げぬ。おはようレス活動、それはまさしくスーサイダル・テンデンシィ…。と、ここまでが前回の内容だ。


さてこの難局をいかに乗り切るか。ここで採用したいのが「律法の形式主義」である。自身の内面に対する裏切り行為を、対外的な言動に許し続けることでbergをその危機から救おうと考える。
つまりはこういうことだ。私たちは「おはよう」の挨拶を「1日の始まり」を表すことばとして認識している。しかし24時間たゆむことなく回り続ける地球と時計にとって「おはよう=始まり」という図式は極めて恣意的。朝が1日の始まりなのは「生活リズム上、なんとなくその方が収まりがいいから」という人間様のご都合主義であって、しかもそれが堂々とまかり通っているわけだから、ならば1日の始まりをどこに置こうと、あるいは1日の終わりをどこに見出そうと、それもまた人間の勝手だ。「おはよう」を「1日の終わり」と捉える視点は十分に可能だろう。誰もが「始まり」と考える「おはよう」の挨拶を、私だけは「終わり」の意味を込めて言い放つのだ。
甲は乙におはようを告げ乙は甲におはようを返すが、まるで同じ見てくれをした甲のおはようと乙のおはようは、ちょうど正反対の意味を付されている。灼熱/氷点下という真逆の現象が、「やけど」という共通の果実を人間の肌にもたらすのと同じこと。


職場で街中で交わすおはようの挨拶に一人、まあ俺は「1日の終わり」のつもりで言ってるんだけどね、という地雷を埋める。あははばっかみたい、みんな俺が1日の始まりの挨拶をしてるんだと思ってやんの!朝日と共に地球を覆う「始まり」のムード、そこに身一つで挑むテロリストとして、本屋の平積みに檸檬を仕掛ける書生として、けぶる朝もやの中ひそやかな「終わり」をぶつけ炸裂させる。朝のリレーに出場しバトンをがっしりと受け取った振りをしながら、返す刀でバトンを叩き返す。得られる結論はご察しの通り、始まりと終わりが衝突する地点、そこで時はぴたりと歩みを止めるに違いない。つまりberg立ち退きの日はついぞ永劫訪れないのだ。ちゃんとおはようを言いながら、つまりオトナ社会のマナーを遵守しながらにこのパフォーマンス。我ながら実に見事としか言いようがない。聞け万国の労働者!いつわりに満ちた我がおはようの声を!


話は何もおはように限ったものでない。おやすみも、こんにちは と さようならも、あらゆる挨拶という挨拶を逆の意味で発言することが、形式主義者の魂には難なく可能なはずだ。
例えば、出会いは別れのきっかけ、別れは出会いへのステップといった意味内容の言説を耳にする機会はこの季節とみに多いが、これは「こんにちは」と「さようなら」の互換可能性を端的に示している。出会い/別れのつもりで「こんにちは」と言おうが別れ/出会いのつもりで「さようなら」を叫ぼうが、結局「こんにちは」は「こんにちは」、「さようなら」は「さようなら」として解釈されるのみ、発言の裏に込められた意味性などまるで意味がないのだ。挨拶の合法性を決めるのはあくまでその場のTPO、発話者の内面は幸か不幸か決して問われない。ここに「律法の形式主義」は晴れて完成の目を見ることとなる。


風呂敷がずいぶんと広がってしまったが、とまれbergの安泰はここに保証された。挨拶における内的テロ活動により地球の自転を止めれば案件は円満解決。ああ、よかったよかった。今日もビールが上手い。
世界中の人が挨拶の意味性を完全にひっくり返したとき、地球はついに逆向きの自転を始めるのかもしれない。bergよ、永遠なれ。