100色はくだらない。わかばの季節に町をあるけば駅までのたった四半時間は実に様々なみどりであふれていて、そこはみどりの王国でありシンフォニーでありカーニバルであり、照らされてはあざやかにきらめいて、目にうつる色とりどりはみどりだけで100色はくだらない。近所にある看護師さんの寮はコンクリート打ちっ放しなのだが最近なぜか緑色のネットでおおわれており、半ば「すごいよマサルさんの自宅」みたいなことになっている。これも芽吹くみどりへのリスペクトなのかもしれず、とにもかくにも晴れた日のみどりに囲まれる気持ちよさったら。これだからこの季節はやめられない。いや何をやめるとかそういうことでなくて、その、雰囲気ですよ雰囲気。


みらいへの予感に満ちた新緑の季節にふさわしく、いや別段ふさわしくはないのかもしれないけれど、でもやはり「こどもの日」まで控えている以上やはりふさわしいと言って良いと思うのだけれど、5月と6月は小児科での研修。毎日がこども天国だ。
院内では「児」と呼ばれる彼ら・彼女らの無条件のかわいらしさをいったい何にたとえよう。久米川の激うまタイ料理屋「サワディー」のトム・ヤム・クンにたとえてみようかとも考えるが、そんなものでは目の前に咲いたほとばしるかわいらしさを表現しつくせるはずもなく、そもそもトム・ヤム・クン自体がかわいらしくもなんともない。どうやら児たちのスマイルにやられて頭がゆだってしまっているようだ。たった3日しか経っていないというのにこの破壊力。自信がある。児の背後に立つお母さんがライス米国務長官、もしくはそれに準ずる、核の脅威にも似たとびっきりの緊迫感をたたえた女性だったとしても相好を崩し続ける自信が今の私にはある。おそるべきは児パワーである。


たしかに私は子供好きに違いないし小さな子を見れば理屈とかじゃなくて普通にかわいらしいと思うけれど、小児科にただよう「子供を好きでないやつなんて人間じゃないわ!」的な過剰なまでの子供好きっぷりについていけるかどうか自信がないの…あの人たち小児のこと異常なまでに好きすぎなんだもん…。と、4月末の私は妙にひねくれた不安に怯え幾分なりともセンチメンタルになっていたのだがそんなの杞憂も杞憂。子供を好きでないやつなんて人間じゃないわ!豚よ!トム・ヤム・クンよ!今の私なら胸を張ってそう言える。
採血やライン取りにはおとな相手のそれとは違った独特の緊張感や困難が伴い、内服及び点滴薬の出し方、親への接し方などについても当然ながら「おとなの科」とは勝手がまるで異なる。いやな脇汗の連続だけれどやはり児のかわいらしさの前では何事もふっとぶ。


何より難しいと感じるのは児への接し方。新生児には腫れものに触るくらいにおっかなびっくりになるし、言葉がわかるようになってきた子供たちへの応対なんてどうして良いのかさっぱりわからない。我ながら痛々しいほどにぎこちない。子供たちが病気から回復する手助けをしてあげたいのはもちろんだし、ELTの曲に感動したり自己投影してしまうような薄っぺらい人間になっちゃダメだよとか、そういうことを言うと敵ばかりが増えるから間違ってもブログにそんなこと書いちゃダメだよとか、過ぎた日に背を向けずにゆっくり時間(とき)を感じて、いつかまた笑って会えるといいねとか、そんなメッセージも込めて児を見守っていきたい。でもそれ以前に自然なコミュニケーションが満足にとれないのだ。


だいたい私なんて希望にかがやく子供たちと接して良いような人間ではないんですよ。家でひとりのときはドアを開けっ放しでウンコするわ、何だかそのまま勢いづいて下半身すっぽんぽんのまま芋焼酎の水割り、時には「爽健美茶 割り」といった雑ぱく過ぎる飲みものを楽しみながら、ブログで「毎日チンチンを見たり触ったりしながら暮らしたい」みたいなこと(id:shoshoshosho:20080420)を書いて暮らしているような人間なのだもの。初対面の人たちとの飲み会で、彼女たちのいる半地下の小窓にむけて外から立ちションしちゃうようなうす汚れた男がどの面下げて向かい合えばいいというのよ。あれだから、今まで黙っていたけれど最近ちまたでチューリップを切りまくっているのも私だから。多摩川でアマゾンにしか生息しないはずの外来種が!私だから。崖の上にとり残された子犬が!私だから。クゥ〜ン!私だから。まっすぐすぎるあの子たちの目に、うしろめたさを感じては身の縮む思いにつまされるばかり、その背中にはメルヘンなお花畑(切断したチューリップの)。


まだ始まったばかりだし、ゆっくり接し方でも模索していこうかしら。そんな感じで小児科研修スタート。