もしもし

アノマリー(anomaly)という言葉がかの国にはあり、一般の文脈では「例外・異例」という訳を付されることが多いかと思うけれど医学の世界では「奇形」という訳語をあてられることもしばしば。児のつつがない成長を見守ることを本分とするわけだから小児科にいると必然的にアノマリーは、とりわけ新生児に対して、大きな関心事の1つとなる。わかりやすいところで言えば指の数は何本かしら、耳の穴がきちんと通じているのかなといった目に見えるアノマリー。エコー検査、すなわち超音波をあてればからだの内側。脳のつくりに異常はないだろうか、心臓の壁に穴は空いていないかと肉眼では確認できない奇形に目を配る。


超音波のような「高級な」機器でなくとも目にうつらない身体の異常をさぐる手法は多々あり、中でもいっとう基本的な手法として「聴診」がある。聴診器を患部にあて耳をすますあれだ。基本すなわち容易とは限らないのは世の常、聴診の奥深さに翻弄される毎日。私などが聴診器をあてても「生きていることしか分からない」といったお粗末な結末をうむばかりだけれど、上級医の先生は生後1日目検診で「多分ねー」とうそぶきながらきっちり心室中隔欠損を聴き捕まえてきたりする。ただ脱帽するばかりだ。



もしもし、もしもし〜。小児科では児に聴診器をあてるときに「はい○○ちゃん、もしもしするよ〜」とおどけながらその胸や腹に聴診器をあてることが多い。もちろん大人相手にそんなふざけた真似をすることはなく、聴診における小児科ならではの「アノマリー」としての「もしもし」なのだ。ただでさえ調子が悪く、また見知らぬ環境に置かれ緊張のピークにある子供をいたずらに怖がらせてはならぬからして、医師たるもの親しみやすいスマイルに加えて言葉遣いにも気を配る。
オトナ相手と同じように聴診器をあてていてはいけない。それは病苦にあえぐ純粋な魂たちにとって「真っ白な服を着た知らないおじさんが、見たこともない器械を無言で胸にあててくる恐怖」に他ならない。とはいえそこに笑顔と「もしもし」を加えたところで「真っ白な服を着た不審きわまりないオヤジがいたいけな小児を相手にやけにニヤニヤしながら、見たこともない器械を胸にあて『もしもし〜』と気が触れたとしか思えないことをつぶやいてくる恐怖」の生じるばかり、事態が好転する可能性ゼロである気がしてならないのだが、それでもやはり子供らにとって、自分の力ではどうにもならない恐怖と身一つで相対しなければならない場面も世の中にはあるのだという教訓を得る機会にはなるだろう。


聴診するのに「もしもし」って、子供に変にこびているみたで何だか恥ずかしいよなあ。そう思っていた私だが、いつの時代も小児にとって最大のアイドルであるアンパンマンシリーズ、トーマスシリーズの個性豊かなキャラクターたちは病棟や外来のいたるところに隙あらばペタペタと貼られては私を取り囲み、彼ら・彼女らの発する独特の空気に呑まれるとどうだろう。イタリアを訪れればピザのことをピッツァと言いたくなるのが、アメリカに身を置けばアブラハ、じゃなかったエイブラハム・リンカーンと言い直したくなるのが人情であるように、聴診器を構えた私はごく自然に「もしもしぃ〜」と相好を崩しているのであった。興がのれば「もちもちしゅるよぉ〜」と、もしもしをしたいのか児の肌に見るモチモチ感を賞賛したいのかはっきりしないあやしげな幼児言葉も口をつくいきおいがある。習慣とはげに怖ろしい。



小児科をローテートしながら研修の一環として一般内科の救急外来を担当することもあるのだが、これが実にリスキーなプログラム。生後7ヶ月の乳児に対する「もしもし」なら話も通ろうが、生後1037ヶ月の元・乳児を相手どり妙にニコニコした表情で「もしもしするよー」は完全な失敗だ。白衣を着た20代後半の男性が、聴診器を老婆の胸元にあてながら喜色満面にもちもち〜…どこからどう見ても変態の、性欲アノマリーのそしりを免れ得ないだろう。相手が老夫、あるいははつらつとした若さにあふれた青年期の男女であったとしても「もしもし」ひとつで「性的にかなり珍しいアノマリーを抱えた人間」のレッテルを貼られ一発アウトの即退場であることに違いはなく、一般内科に伴うあまりのリスク。進行する医師不足もうなずける話としか言いようがない。
冷静になってみれば「人の胸のなかの音をよく聞きたい」という発想自体が、医学の必要に迫られたものとはいえずいぶんエキセントリックなものであり、器械を発明した人はやはり常人とはかけ離れたアノマリーな欲望を抱えた御仁だったのではないだろうか。あの子の心臓の音が聞きたいの!聞けなきゃヤなの!そんな全盛期の岡村ちゃんみたいな気違いじみたワガママがはからずも医療に貢献したなんて、なんともロマンティックな話ではないか。


というわけで、もしもしされたい妙齢の女性の方、連絡待ってます。「もしもしコース」と「もちもちコース」どちらを希望かも明記してくれると心の準備ができて助かります。あなたの母性くすぐります。くすぐります、あなたの母性と私への殺意。