マジックアワー

そいつを逃したときの最高の方法を知っているかい…それはね、ただ、明日を待つことだよ…。
この週末に三谷幸喜の「ザ・マジックアワー」を見てきましてこれが実にあたたかなユーモアにあふれた作品、感銘と言うには大袈裟だけれど何らかの形で感化を受けた私も、私の感じるマジックアワーについて僭越ながら書かせていただきたいのです。さんざコマーシャルや番宣で触れられてみなさん十分ご承知のことと思いますからここで直接には説明しませんが「マジックアワー」とはだいたいこんな感じの意味らしいです。人生がときめく瞬間とまではいかずとも、世界を、少なくとも私のささやかな日常をコンマ数ミリきらめかせる魔法のひとときに、わずかばかりでも共感をいただけるとするならばこれに勝るよろこびはありません。


実家を出てからというもの作りは粗雑音は筒抜け、身を切るすきま風吹きすさぶアパートに暮らしたことしかない私です。現在の住まいにいたっては線路脇かつ病院の目の前というクールな立地条件、西武新宿線の騒音と救急車のサイレンによる板挟みは抜群の睡眠環境を我が家に提供して止みません。
ユニットバスの環境も決して満足のいくものと言えず、リビング(と言えるシロモノかどうか…)からはシャワーやトイレの水洗の音がジャバジャバと普通に聞こえてしまうのが悩みの種。特に困るのがいわゆる「家飲み」というやつで、病院の同僚や大学時代の友人先輩後輩などを招いたときに「おしっこの音まる聞こえ」なる状況が生まれてしまうのですね。ジョボジョボー。これはどうにも気恥ずかしい。
さらに女性がいる場合、その音漏れ問題はさらにデリケートになります。男だらけで催された気のおけない酒の席であれば「オシッコの音は友情のあかし」くらいの気持ちでジョボジョボと豪快に、いわば「男の校歌」を歌い上げることもできますが、私も紳士のはしくれ、女性のいる場でそのようなはしたない真似など決してかないません。


尿の音に関しては男性に比べ女性の方がはるかに鋭敏なはじらいの感覚をもっているようです。女性トイレには「音姫」なる機能が付いていると聞くほどです。たとえ女性同士の環境だとしても、おしっこの音を聞かれたくないし、聞かせるなんて申し訳ない。ましてや男性の前で尿の音を漏れ聞こえさせるだなんて…この世の中に淑女の恥じらい以上に美しいものが存在するでしょうか。
かくしてここに「水洗してから放尿」という手順が生まれるわけですね。水の流れる音にまぎれさせ尿関連の音をかき消そうという「おうちでできる簡単音姫」的な試みのことです。自宅で缶ビールやら缶チューハイをかこみながらせんない会話に花を咲かせている風景。ごめんちょっとトイレ貸りていいかなぁ〜?とそそくさとトイレへ向かいジャーと水洗音、しばらくたってふたたび水洗音がジャー。誰にでもなじみのある光景でしょう。最初のジャーは音姫と同じ意味の音、2度目のジャーはもちろん、使用したトイレットペーパーなどを流すためになされる「本物」の水洗音。こういった奥ゆかしさ、実に女性的な気づかいの原風景をかいま見るこの瞬間。これぞまさにマジックアワーと呼ぶに相応しい。
何がどう転ぶかわからないものです、トイレの音がだだ漏れするようなボロい家に住んでいて本当に良かった…。


そしてミュージックゴーズオン。本当のマジックアワーはその後に訪れます。トイレの水洗音など、訪れくる黄金のひとときのほんの序章に過ぎません。
つまりはこういうことです。水洗レバーを引いた後で放尿を開始したけれど、思ったより尿の貯留量が多かったせいか水洗音の尺を超えて尿が出続けてしまい、結果としてやっぱり尿の音がリビングにまる聞こえになってしまったとき。減弱する水洗音の向こう側から、隠されていたはずの尿音が森を守るやまびこのように響きだしたとき。これこそが真の「魔法のとき」に他ならぬ。そう思うのです。
Minnie Ripertonの大名曲「Lovin' you」はオープニングに小鳥のさえずりを配することで不朽の傑作の名をほしいがままにしましたが、トイレの中から聞こえ来る「はみ出た尿音」にもそれと同等の、いや、それ以上の価値を認めざるを得ない。水洗音を冒頭に配することで尿のひびきはとびきりのミュージックに姿を変えている。そう思うのです。


考えてもみてください。まずひとつに「隠そうとしたものを隠しきれなかった」という恥ずかしさがありますね。若干下品な趣味であるとの自戒も込めて言うのですが、「隠しきれていない恥ずかしさ」に抗いがたい魅力を感じる気持ちは決して私だけのものではないでしょう。さらに、トイレから出てきた彼女と室内にいた私たちの間に無言で交わされる「そこには触れないでおくのがお互いのやさしさだよね」といった暗黙の了解は、互いを思いやる崇高な人間性の、ひとつの発露です。


また「水洗音の尺に余るほどの尿が溜まっていた」という事実も見逃せません。尺をはみ出す程の尿をため込んでいた彼女は、迫る尿意をトイレへ向かうしばらく前から物言わず我慢し続けていたわけです。アルコールによる利尿効果も手伝い、積もった尿意は相当なものであったことでしょう。欽ちゃんの仮装大賞で言えば「14点」くらいの緊迫感にひとりさらされ、それでも彼女はトイレを我慢していた。
なぜかと言えば自分がトイレに行くことで上に見てきたような「水洗音にまつわるあれこれ」という問題が否応なく訪れてしまうから。みんないい大人だから声に出さないし、とりたて話題にすべきことでもないけれど、でもあそこで確かに「から打ちの水洗音」が鳴っているよね。といった微妙な空気に場が染まることを極力さけようとしてくれているわけです。実に行き届いた気づかい、奥ゆかしさ。
水洗音からはみ出したおしっこタイムが長ければ長いほど、その子は一人孤独に、静かな思いやりをふりまいてくれていたと言えるでしょう。秘めたる美学。人間性のひとつの到達点とも数えられるこの瞬間をマジックアワーと言わずして、いったい何をそう呼べば良いのでしょう。


蛇足ながら付け加えると、膀胱が水洗の尺をはみだすほどの尿をたたえていくその間彼女はモジモジと尿意を我慢し続けていたわけで、なんだかそういう「静かにこらえてる感じ」ってすごく良いですよね。最高ですよね。などと書くと眉をしかめる女性の方も多いとは思いますが、少なくとも男は全員賛同するはずですからイーブンです。何がイーブンなのかよくわかりません。
尿意を懐柔したり押さえ込んだりしながらそ知らぬ顔をし続けているという、そのシチュエーション。人類の宝ものとしか言いようがありません。ありがとう尿意、ありがとう水洗システム、ありがとうはみ出た尿の音。全てが一体となって訪れるはみ出の瞬間、そこにマジックアワーを見出さないでいられる理屈がありません。


以上、「意味としての音姫」からはみ出たおしっこ音って女性らしい魅力にあふれていて、かつ恥じらいまでばっちり加味されているなんて、ほんと夢のようですよねというささやかな提案をさせていただきました。あれはある種のミラクルです。
確かに「魔法の瞬間」はなかなか訪れるものではありません。ほとんどのおしっこは1回分の水洗音の間にこと足りてしまいます。しかし、だからこそ私は諦めない、追い続けたい。「ザ・マジックアワー」劇中に登場した印象的なセリフが思い出されます。マジックアワーを逃したときの最高の方法を知っているかい…それはね、ただ、明日を待つことだよ…。
私は今日も明日もマジックアワーを、「尿の尺はみ出」を待ち続けます。尿意切迫に襲われた際はぜひ我が家のドアを叩いていただければと思います。一緒にひと花咲かせましょう。ひと花って何だよ。とまれ、ご静聴ありがとうございました。ジョボジョボー。