たまごをうむ

みなさんは無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことはありますか?僕はありません。しかし無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのある人間の方が、無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのない人間に比べ気くばりや心づくしの観点からして人間的に豊かであるように思います。そこで、今日までは無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのなかった私もここはひとつ、無精卵を産む親鶏の気持ちを考えてみたいと思います。


親鶏にしてみてもセックスのおぼえはないわけですしすることはするにしたってしっかり避妊していたわけだから、今朝がた産んだこの卵が無精であることは百も承知でしょう。無精なこの子はけっして孵化しないのだけれど、生命をスタートさせることはないからそれは「産んでない」に等しいのかもしれないけれど、それにしたってやはり私がお腹を痛めて「産んだ」んだぞ。こういった複雑な自負の感情に包まれて親鶏は、卵の未来に何を期待するのか。


無精卵。ヒヨコやニワトリとしてのキャリアは望めないわけで、ならば「卵」としてどう生きどう死ぬか。これが重要でしょう。
やはり「卵が主役」の料理に使われるのが花形の人生でしょうか。オムレツ、オムライスあたりは無精卵を産んだからには親として期待せずにはいられない、憧れの調理法かと思われます。宅の子、ふわふわのオムライスになってやさしくチキンライスを包んだんですのよ、オホホホ。子の活躍に母親として鼻が高い。目玉焼き、スクランブルエッグ、だし巻きあたりの卵オンリー料理、いわば「ソロ活動」も魅力的です。身一つでスポットライトを背負い武道館をいっぱいにする、無精卵業界のいわばYAZAWA的、長渕的存在。しびれますね。
逆に、卵感が前面に出ない形で使われる場合、母鶏としての心情は複雑かもしれません。フライの際の小麦粉とパン粉のつなぎであるとか、バターロールの照り出しとか。それはそれで重要な役割であることは十分承知で、それでも親としてはどこか「うーんやっぱり地味だよなあ…」と少しばかり寂しいような。いやしかし、卵として地に足のついた活躍をするのであれば、人様(他の卵たち)に迷惑をかけずしっかりやっていけるなら、どのような形で使われるにせよ親としては十分に誇らしいものでしょうか。


もうすっかり私も親鶏の気持ちですが、食べ物として扱われない(例:お笑い芸人にぶつける用の卵など)のはさすがに悲しいなあと思います。まあそれで奇跡のリアクションでも生まれれば話は別でしょうけれど、それにしたってやっぱりお腹を痛めて産んだあの子が「もの」扱いされるなんて、山崎邦正にぶつかって割れるなんて…想像しただけで身の縮む思いです。


何が言いたいのかさっぱり分からないエントリになってしまいましたけれど、ひさしぶりのブログ更新は楽しいものですね。しかも無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのなかった私も、晴れて無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのある人間になれて非常に有意義でした。もし無精卵を産む親鶏の気持ちを考えたことのない方がいらっしゃれば、ぜひ無精卵を産む親鶏の気持ちを考えてみてください。そして世界から戦争を無くしましょう。それでは。