供える

暇さえみつけては、いや、自分から必死に時間を作っては、うなされたようにはてなダイアリーをつけていたのが嘘のように、ブログに気持ちが向かなくなった。嘘でもなんでもここを読んでゲラゲラ笑えればそれでいいと思って、あるいは何か胸の中につっかえたもやもやにとりあえず形を与えることで――ときにそれはプラグマティックなカタルシスを得るためにでっち上げられたみせかけだけの安易なセンチメンタルさで――心情に暫定的な解決をつけようとして、とにかく日記のようなものを書いていた。いや、これからだって書くのだけれどそういうものも、でもこう、書きたいものというか、ブログという形で記録しておきたいものが明らかに変わってきている。面白い発想ドカーン!スパイスガールズかっつうの!ガハハハハではなく、久しぶりにかぶったあのベースボール・キャップは…みたいなあざとい感傷もいらない。もっとこう普通のことばで何気なく語られる毎日のどうでもいいようなあれこれを、その切れはしみたいなものを、お供えものを置くみたいなやり方でそっと残したい。


たとえば僕はシャワーを浴びながらおしっこをすることがある。これを題材に何か書こうと思うとする。
あえて堅苦しい言い回しで「おしっこ」の下世話さと対比させれば滑稽感が出るぞとか、「あれ、みんなが引いていってる気がする…待って!」と自虐的なものいいでおかしさを出そうとか。出だしのフレーズがそのまま後で出てくるようにするとかっこいいよね、そのためにあえて「起・転・承・結」とひっくり返してやろう。なんてあれこれ考えながら、やろうと思えばそれなりの構成があってある程度ボリュームのある文章ができあがる。
でもそういった作業はまるで本質的でなくて、確かに推敲すること自体の面白さは捨てがたいものではあるのだけれど、もっとちゃんと書き留めておきたいのはお風呂場でするおしっこの生理的な心地よさであったりあるいはルールをあえてやぶったとき背すじに響く後ろめたい快感であったり、それって実は「シャワーを浴びながらおしっこをすると何だかキモチいい」と書けばこと足りるたぐいのものなのかもしれない。


自分から「ほら、これすごいでしょ!」「僕はこれ超おもしろいと思うんだけどみんなはどう思う?!」といったコミュニケーションのあり方はブログならではで、とても魅力的な形式だと思う。でももっとこう、単なる日常の記録。ただそこに置いてあるだけの、直接に他を指向するわけではない、作為が透明化されたようなエントリ。それらの積み重ねから何か見えてはこないのだろうか。