Heart

twitterのつぶやきの4割は本当にただの「つぶやき」らしい*1。ミルクティーなう。CD返しに行かなくちゃ。そういった、他人に何かを伝えるというよりは単なる「記録」が4割。それ以上でもそれ以下でもない「意味内容」としての言葉が並ぶ。まあ実感としても妥当な数字だと思う。誰かに何かを訴えるためにレトリックの限りを!というのでもなく、みんなとワイワイつながりたいから今日おきたことをみんなに教えたい♪というのでもなくただもっとシンプルに過不足なく。
楽しいんだよな。新しいタイプの喜びというか、自分が情報になって溶けていく快感を発見した点でtwitterは偉い。自分がwebの中へまじり出すような。いったん溶けそしてデコードされて、自分をフォローする人の前で再現される。そういうたぐいの。簡素で嘘なく、自分はどれだけ飾りないむき出しの情報になれるか。そういうたぐいの。


僕は精神科医の訓練を受けていてそこでいつも思うのが、カルテは「単なる事実記載」以上の意味を持つというか持ってほしいというか浮かび上がってほしい。その記述を読んだだけで患者さんが歩んできた軌跡、今後送るであろう人生の道程、そういう類のものたちに。
彼らの生をなるべく鮮やかに描いてあげたい。各人の抱える悩みの手触りだとか色彩を盛り込みたいし残された喜びのまぶしさやかけがえなさで行間を埋め尽くしたいのだ。けれどやっぱりコクがない。直接に言われたことはないが、達人たちの訓を読むにつけ「最近のカルテはDSM-IV*2による操作主義の隆盛の中、非常に項目羅列的である」と述べられまくっている。確かに読み返してみるに半年前に比べればそれはいくらかマシになってはいるが、自分のカルテはどこまでも平坦だ。「情報量を増やしたければ記載する項目の数を増やせば良かろう」という「手数主義」のにおいがぷんぷんと漂っている。



CHAGE and ASKA 「Heart」


コクって何だろうか。例えばそれは偶然に出会った二人、とにかくうれしくて特別な準備なんてしないで生活の様々から話題を持ち寄りご飯が上手に炊けたこととか幼稚園児が白いとこしか踏まないように横断歩道を渡っているつもりで全然そうなっていないのがほほえましかったこととか気乗りしない明日の早朝会議の予定とか「しんぼる」が全然しっくりこなかったこととか、そういった日常のあれこれを互いに伝えあってみるとまるで何気なさの羅列の中あらゆる特別さを超えた特別なあり方で二人の心と心が触れ合ったかのような実感を得るのだけれど、でもそれはやっぱりすれ違いに終わってしまうに決まっていてきっと手元に残るのはあのとき一瞬だけでもわかり合えたんじゃなかったかっていう夢物語。
という意味内容をはるかに超える豊かさを、CHAGE and ASKAは稀代の名曲「Heart」で「貨物船のように運ばれる街ですれ違う/言葉の船底をこする思いで語り合う」とわずか2行で歌い尽くした。冷静に言葉を追うのは野暮というもの、もはやよく意味が分からないレベル、日が暮れるまで炒め続け飴色を通り過ぎそれをコクと呼んで良いのか単なる言葉遊びなのか分からなくなったタマネギのような歌詞だが、それでも僕がこの段落の前半に記した詩情も遊び心も何もない文節の羅列に比べればはるかに「コクっぽさ」がある。風景が見える。何せあの飛鳥涼の仕事だから当然と言えば当然、あるいはそれを<差異化の80年代>の化石化した残光と思えばそれまでかもしれない。それにしてもこの差よ。


出典の定かでは無い話だがどこかで読んだ。小説を書きたかったら悲しいときに「悲しい」と書いてはいけない。情景描写や言葉選びでその悲しさにもっとも近い感情を導くことが近代以降の「小説」のマナーだという。
サマーソニックに行くときの、行ったら楽しいに決まっているとわかっていつつも幕張メッセマリンスタジアムじゃどうにもウキウキが今ひとつ湧いてこないんだよなあ、コンクリ過ぎるんだよなあ全体に。なんてな気持ちをなぞらえて表現しなくてはいけないという。東京駅を発ちトンネルを抜けた京葉線が左手に遭遇する、まさに岡崎京子リバーズ・エッジ」としか言いようのない平坦で印象上も物理的にもあらゆる灰色に満ちた団地群に、あるいは次いで右手に浮かぶ、見た目が狂乱の極彩色であるがゆえにどこまでも冷たい灰色で溢れた東京ディズニー・リゾート群に。けれどやり方がわからない。
ああ、灰色のコクに埋まって窒息してしまいそうだ。


twitter、僕のカルテ。そこから浮かぶのはシンプルな情報をマシンガンの様に並べて出来上がる点描としての「人間」というか。
他方、誤謬可能性なのかもしれない。読み手がどれだけ自分勝手に読み間違えられるか、間違えの許容幅をいかほど担保しているかが「コク」と呼ばれる何かではないか。
先人たちの言う深みに溢れた記載とは?無論カルテは正確でなくてはいけないが仮にコクに満ちた文章がそこに記されたとして、訓練を積んだ者がそれを読めば1000の言葉を費やしても届かない事実を理解できたりするだろう。それは詩と小説の仕事?そのくらいわかってんだけども…。


時代が違えばものを書くツールも違う(紙と鉛筆/モニターとキーボード)。手書きの手間を省くため、解釈の大きな部分を読み手に委ねつつ「コク」を追求した側面は絶対にあったはずだし、キーボード世代はとにかく字数で攻めて読み手に依存しない情報量を稼いだ方が、間違いのない上に経済的だ。コクを無反省に礼賛することもない。しかし「完璧に伝わっているようで何も伝わってこない」「何も述べていないようで全てを述べている」、あの独特の雰囲気ってやっぱり良いじゃない。80年代の残り香を吸い、その船底をこすり育ったおそらく最後の世代である僕はそんな風にも思う。
twitterチャゲアスは宿るのか。カルテに「クロールの手つきで心の焦りをかきわける*3」作業は必要なのか。
あー、よくわかんねえな、今日のエントリ。

*1:ここは実証主義的社会科学ブログなのでソースも示しておきます。ソースの信憑性はあっちに聞いてください!http://www.asahi.com/national/update/0919/TKY200909190033.html

*2:DSM-IV:ものすごく大雑把に言うと、診断を世界中で均一化するために作られた各疾患別の項目チェックあるあるシートのことです。

*3:「WALK」です、念のため。そんなことより僕から君へと伝えたいのは、愛の強さや恋の魔法や残した夢のつづきじゃなく帽子の向こうで 息を読まれてはひとり空に見送ったあの夏です…やっぱ飛鳥は天才だわ。全く意味わかんないのにかっこいい。