笑い飯による親(M-1)殺し

ちょっと今さら感が出てきたのは重々承知で、今年のM-1グランプリの感想を書く。漫才は日ごろほとんど見ず、この1年間は家にテレビすらない。けれどM-1だけは初回分から繰り返し見ている、という程度の人間の雑感。

一昨日のエントリーにも書いたけれど、M-1は「コンテスト」だ。つまり(明文化されてはいないものの)何らかの評価基準が存在していて、それをいかにみごとに消化したかで勝敗が決まる。ボケの難度・手数、ツッコミのバリエーション、声の張り方、4分間での緩急などさまざまな項目が用意されていて、基本的にはそれらを一つ満たすごとに「笑い」が高まるというシステム。今年の何がすごいって、この「M-1はコンテストである」という文脈を、つまり笑いの陰には様々な審査基準が存在するのだし審査員はただ笑っているのではなくそれらを逐一「チェック」しているのだ。ということを観客が見事なまでに熟知して視聴に臨んだことだろう。*1

個人的なエピソードなので客観性はまるでないがたとえば第2回大会でますだおかだが優勝したとき。不恰好ながら異形のかがやきを放つ笑い飯の2人が初めてM-1の決勝に姿を表したあの年に、フットボールアワーが死ぬほど面白かったあの年に、ますだおかだが優勝したことの意味が私には本当にわからなかった。審査員たちは頭がどうかしてるんじゃないのかと真剣に思った。けれども今ならわかる。
M-1は「その日一番面白い漫才をやったやつを決める場所」ではなくて「コンテスト」なのだ。何を面白いと思うかなんて人それぞれ違うに決まっていて、それでも一等賞を決めようとすることの大いなる矛盾が解決されなければ「コンテスト」は成り立たない。審査の公平性を担保することの重要性は誰しもが認めるところであり、だからこそ長い(上方)漫才の歴史の中で練り上げられ体系化されてきた有形無形の審査基準。それをいかに把握し、クリアしていくか。そういった観点からみたときの総合点1位はフットでも笑い飯でもなく、ますだおかだだったのだろう。それは「漫才グランプリ」というハードの中でM-1というソフトが開催されている以上、くつがえしようのない部分だ。今ならそうやって理解できる。

アンタッチャブルブラマヨチュートリアルが優勝をさらう光景、彼らが「審査基準」を誰しもが満足する形でに満たしながら世紀の大発明や発想の極限といった「プラス・アルファ」をそれぞれに発揮してはトロフィーを持ち帰る様は勇姿そのものだった。そのまばゆさの陰にひそみ気づきにくくなっていたけれど、M-1は一貫して「漫才グランプリ」だったのだ。しかも相当にぶれのない基準で確立された、まさに「ブランド」としてのグランプリ。

あの幸福な3年間が過ぎさった後に、サンドウィッチマンNON STYLEが優勝する中でその「コンテスト性」は徹底周知された。「◯◯は高い技術をもっている(M-1の審査基準を多く満たすことができる)」「△△、今年はM-1用にチューンナップしてきて本気だ」とテレビ局が直々に喧伝して回るほどに、かの大会はM-1職人たちの技術品評会になってしまった。面白さへの純朴な信仰は失われ「面白さは技術である」というおぞましさにも似た科学的思考が世を覆った。漫才グランプリの脱呪術化。
その流れの中で今年の優勝は無論パンクブーブーである。異論はない。ますだおかだ優勝に受けた言語化されない違和感に端を発し、オードリーとナイツが負けてNON STYLEが優勝したあの瞬間に頂点を極めた負の衝撃から既に私は学んでいる。M-1は「コンテスト」なのだ、笑いの質ではなくて技術の巧拙を評価する場所なのだと。

「最近のM-1は変わってしまった」という声を至る所で耳にする。事実私も去年まではそうくさすクチだったのだが、勘違いしてはいけない。変わってしまったのは私たち、動いているのは太陽ではなくて地球だ。
私はこれに気がつくのにまるまる9年を要したが、気づいてみれば何のことはない。M-1はその当初から一貫して揺るぎ無いブランド・イメージと信念に貫かれた「お笑い科挙」なのだ。年数を重ねるに連れて私たちの科挙リテラシーが多少深まったに過ぎない。あの試験、頭がよけりゃ受かるって聞いてたけどそうじゃなくってそれ用の問題集とかドリルでめっちゃ勉強しなきゃいけないんだって!論語おぼえてないと鼻で笑われんだって!そっかー、どうりでキレキレの奴よりも真面目に取り組むタイプのやつらが受かると思ってたよー。無知な私はようやくそこに気づくことができた。
パンクブーブーパンクブーブーとしての特別性から優勝を得たのではなく、その時一番見事な答案を書いたから、お笑い官僚としての優秀さを上手にアピールできたから優勝したのだろう。来年、次の試験が行われる頃にはパンクブーブーの書いた答案の内容なんてほとんどおぼえていないし、それで良い。大切なのは答案の中身ではなくて操作的にあてがわれる点数だ。オンリーワンではなくナンバーワンを決める戦い。先に名を挙げた3組などのように出題者の思惑を凌駕する奇跡の答案を提出して科挙にパスした人たちも中にはいるが、それはあくまで「嬉しい特例」であって毎年の試験にそれを期待してはいけない。だからパンクブーブーが優勝、それでいい。すなおに面白くって笑えたし、素人目にも圧倒的に「上手い」もんな。

さりとて笑い飯である。鳥人チンポジ。今回も壮絶にかましまくってくれた。鳥人では圧倒的な想像力で場を制圧*2、「100点満点+奇跡」を実現し場の頂点に超然と君臨したかと思えばひるがえって2本目でのくだらなさ。BGMはアカペラの野球場にスクールウォーズ。日ハム、晩飯が雑念になるくだりに明らかに使いすぎの30秒、そして極めつけにチンポジを気にし倒して終了。台無しも台無し、M-1の舞台どころか冴えない中学生の部室の一幕だ。本当に痛快だった。
単純な力学として、彼らとその他出演者「どっちが面白いのか」と聞かれて笑い飯を選ばない人はまずいないだろう。番組内だけで考えても漫才以外でのコメントの冴えを見れば歴然も歴然、パンクブーブーが「ありがとう」「精一杯やりました」と就活中の大学生的なお行儀コメントに終始(「ファイナル終了後のチンポジにだけは負けたくないです」が唯一のボケらしいボケ)した、するしかなかったのに対し8年目の場慣れもあろうが笑い飯は「いやー(自分の漫才を)自分で聞いてて面白かったです(哲夫)」「めっちゃ気にしたんでええ具合に(チンポジ)収まりました(西田)」とやりたい放題。

かくして最終審査のフタを開ければパンクブーブーが満場一致で優勝、繰り返しになるがそれは不思議なことでも何でもない。松本人志NON STYLEへの寸評で「いやあ、去年あと一歩のところでオードリーに負けたNON STYLEですけれど」と述べたことがある意味象徴するように、そのとき「一番オモシロかった奴」と「大会優勝者」は審査員側(少なくとも松ちゃんの中では)としても別概念なのだ。この「オードリーに負けたNON STYLE」のくだりで会場が沸きまくったことから、観客側としてもその程度の「裏事情」なんてM-1を見る上での共通了解であったことが分かる。

パンクブーブーの爆笑は「採点基準を丁寧に満たしていった結果」のものだった。おそらく、たかだか結成10年内の駆け出しコンビ達にとって「審査基準の不可視性・不透明性」はかなりのものだと思う。基準の一つ一つを見つけるだけでも大きな苦労が伴なうに違いないし、ようやっと探り当てたとしてそれらを実現に至らせるは道筋相当な困難が期待される。ある程度の部分を軽がる乗り越えてしまう天才肌もあろうが、並々ならぬ努力と忍耐でひとつずつステップアップを重ねるケースがほとんどに違いない。「コンテスト」は若手を成長させる装置として実によく機能する(漫才以外の場所でも幾らでも例を上げられる)。
このシステムのすごいところは、爆笑というゴールを一旦脇に置いても、直接に大爆笑を目指さなくても、きっちり達成項目を頭に入れそれらを愚直にでも実現していけば「爆笑」が得られるところだ。今年のパンクブーブーはまさにその典型例だったように思う。アンタッチャブル型の漫才をベースに採用し、点数を上げるために頑張ってドリルを解きまくって試験を受けたら最高点(=優勝)の「副産物」として爆笑がついてきたという。「副産物」が悪いわけじゃない。見てる側にしあわせを与えてくれる、まごうことなき栄誉の爆笑。これはすごいことだ。皮肉抜きで本当に思う、これはすごいことですよ。
チンポジにだけは負けたくない。パンクブーブーが発表直前に発したコメントはジョークの皮を着せた魂の叫び、あるいは祈りだ。血を吐く思いで修練を積みコンテスト用に肉体改造を重ね浮かぶ涙を偲んではボロボロの武道着でようやく目前に迫った「いただき」に、鳥のお面をかぶってチンポジ気にしながらゲラゲラ笑ってるやつが同じく到達しようとしていたら誰だって殺意を覚えるだろう。絶対負けたくないよ。これもまた本気で思う、がんばれパンクブーブー

「爆笑」を要素に還元していった結果得られた笑いの基本方程式、膨大な審査基準。1分間のボケの数、ツッコミの仕方、そういったチェック項目をうまく満たし統合することで再び近似値としての「爆笑」が合成される。ならば評価自体が難しくまたトレーニングの途上にある者たちがいきなり立ち向かうのは困難な「爆笑」という現象そのものではなくて「要素還元された各項目の達成度」を図れば良い。というのが(私がM-1を通じ学んだ)「漫才コンテスト」の思想だ。分解と統合、近似の美学、微分積分。近代の矜持、勤勉の誇り、プロテスタンティズムの精神。

今年のM-1グランプリ笑い飯のすごさはその「コンテストの思想」に真っ向からぶつかり、さらに優勝をかっさらう寸前まで歩を進めたところだ(もちろん「科挙」対応に向けた労苦も惜しみなく払ってきた上で)。一度として要素に分解されたことのない、手付かずで始原の「爆笑」を、彼らは身を削って創り上げようとしていた。自分たちにしか作れない「ええ土」製の泥人形(それは土と肋骨から産まれたアダムとイヴにも例えられるだろう)を何とか形にしようとして泥んこでもがいていた。光あれ!彼らは光だった。誰よりも輝いていた。*3
優勝がどうでも良かったのではないだろう。2人は本気で優勝したいと思いながら、思うが故にチンポジを気にしたに違いなく「だってその方が普通の漫才より面白いでしょ?」と堂々と審査員に観客に他の出演者たちに突きつけてきた。まずはタキシードを来てきましょうそうしたら面白いことをやって構いません、という場で「面白いタキシード」を来てのこのこやってくるみたいなものだ。
上に確認してきた「コンテスト」の思想、つまり分解と統合の後に得られる「近似値としての爆笑」。それをまっすぐに狙う他の出演者たち、脱呪術化の果てにはじめから「近似値」を期待して集まった聴衆とは発想の水準がまるで違う。周囲の予想を全て裏切って、一本目の「鳥人」にウンコを塗りたくりながらチンポジにもっていくというその行為自体が、まるで一本の完璧な漫才のようだった。ボケは笑い飯の2人、ツッコミはM-1を見ていた全員だ。

「近似値としての爆笑」に勝つためには「より厳密に近似された爆笑」を狙うしかないように見える。特に近年のブランドイメージの徹底的な構築に成功したM-1においては他に抜け道はなく、少なくとも9回の大会に一度として例外措置はとられなかった。
なので。はっきり言って諦めていた。今後ますます「ウマさ」が重視され技術の品評会になっていくM-1は「近似の細密さ大会」として確立されていくのだろう。なればこそますます、あの脳みそが湯立つような感動や興奮はなりをひそめていくに違いない。でも思うんだ。俺はさあ、爆笑したいんだよ!
「始原の爆笑」は優勝しない、だから無理なチャレンジなんて誰もしない。そんな諦念を受け入れる寸前まで気持ちが揺れていたその矢先、笑い飯は「こいつらならやってくれるんじゃないか」とあまりに見事な夢を見させてくれた。コンテスト用に微分されていない、喜びに満ちたあの「始原の爆笑」。分解と再合成を経る以前にそこにあったはずの幻を追い求め、ついに<鳥人>というアイコンが結実。見果てぬ夢の予感を誰しもに感じさせるところにまで笑い飯はやってきた。こんな感動があるだろうか。

どうやら来年も笑い飯M-1に出場するようだ。コンテストの思想なんて歯牙にもかけないあり方で、ぐうの音もでないもぎたての大爆笑をかっさらい、M-1の思想そのものをぶっつぶした上で本気の一等賞をとってほしい。M-1から出てきたコンビが最後の年にM-1の「コンテスト思想」を打ち砕いて生身の大爆笑で優勝したらどれだけ痛快で幸福だろうか。悪意に満ちた親殺し。その現場は全員お腹が痛くて涙目。ワッツアコメディ!
以上、とにかく笑い飯に感動したM-1 2009だった。

*1:お笑いに聡い方々には周知の事実かもしれませんが、この「考えてみれば当たり前過ぎる事実」をおそらく私を含めた多くの「お笑いビギナー」たちは数年前まで言語化できていなかったと思います。ビギナー側の視点で書いているので、この先を読むときも「何をわかりきったことを」「ささいな発見を大げさに、こちつバカなんじゃないか」なんて思わずに心をひろくお読みいただければ幸いです。

*2:鳥人」という発想だけでも天才過ぎるのに「シューベルトの魔王か」っていう常識はずれのツッコミや「チキン南蛮」のベタベタさ加減をありにする腕力、「トリ真一→手羽真一」というバカ流れを大アリにもっていく構成力など、全てのパーツの破壊力が神がかっていた。

*3:ナイツ、南海、ハライチなんかには同じ思想を感じた。今までの登場者だと千鳥やPoison Girl Bandなんかにも目立ってその傾向があると思う。大好きだ。