トイレ考

便利を求めるのは人間の性、とは言えそれはさすがにやり過ぎじゃ…と思う場面もなくはありません。公衆トイレの話をしています。


公衆トイレ。この便利さはありでしょう。急な便意や尿意のたびに草むらを探すわけにもいかずまして都心部には草むらの存在自体がレア、ようやくの思いで見つけた草むらに他の利用者がいない可能性はほとんどないと思われます。一億総草むら時代が訪れてしまいます。だからこそ、ありがとう公衆トイレ、ありがとうTOTO
しかし公衆トイレのサービスが「過剰」である場合こちらが面食らってしまうという悲劇。今日も草むらいらずに使わせていただいてありがとうございます…と感謝の気持ち、なればこそ「やっていただき過ぎる」とこちらが尻込みしてしまうというか申し訳なくて出るもんも出ないわけですよ。まず第1に勝手に便座のフタが開くやつ、あれはビクっとするね。なんど経験しても全く慣れない。精神衛生上良くないのはもちろんのこと、追い詰められた果てに見つけた便器様なんだから「ちょっと不便」くらいで丁度バランスなんです。フタを開けることで、行為のけじめとでも言いましょうか「いざ!」っていう心のスイッチが入る側面もあるのに便座側でそれを塩梅されるとこっちの気持ちに収まりがつかないんです。だいたい自分からフタを開けてくれるような紳士に向かって排便排尿…できます??どうかしてるぜ!


第2にあれ、勝手に水洗機能。これがまた利用者泣かせで私は実に苦手です。最後コンディションを確認したいじゃない。あーこういう色・形状だったか…という振り返り、それに伴ない得られる自身の体調への気づき。そういったセルフ・アセスメントまでを含めて私たちは「排泄」を行っているわけですよ。排泄だけが「排泄」ではなくて、得られるスッキリ感や体調管理、そういったものも含めて「排泄」なわけで、捨てる紙ばかりではなく、そこからどんな拾う神をえるかで勝負、みたいなね。
なのに便器側で気配りしていただいて立ち上がったタイミングでジャーと洗浄。ちょまっ!
けじめの部分もあると思うのです。最後に自分の手で水洗をかけることで「排泄」に終止符を。打ちたいじゃない。フタが勝手に開いた瞬間に排泄の幕が開き、機械的な水洗を受けた時点で排泄おしまい。こんな味気ないウンコを出したいわけじゃない!もっと「排泄」を生きたい、「排泄」に人間を取り戻したいんです。フタを開けるのも水を流すのも大した手間じゃないんですから。


何でもかんでも便利を求めて、その先に人間が阻害されることがあっては本末転倒。排泄はルーチンでも余分な作業でもなく人生についてまわる、だからこそ睡眠や食事や性と同じように、その瞬間を「生きる」ことがもとめられる営みです。公衆トイレからの疎外、なんとか改善していただけないでしょうか。