僕が死んだら宴会のチャンスくらいに思ってください。

私は饒舌だ。自分に自信がないだけに言葉を飾り張りぼての虚勢を張ろうと、昨日も今日もそして明日もいつだって饒舌だ。だからこそのルールとして、最低限の倫理としてこれだけは思う。語り得ないものに関してはとことん沈黙しなくてはいけない。

ペットを飼ったことのない人間の実感や哀切の全く伴わない意見であることは百も承知で、長年連れ添った愛犬が亡くなったときを考える。愛しのロッキーが介護の甲斐なく人知れずこっそりと、夜中に息を引き取った時。沈鬱なの空気の立ち込める中、きっと彼女はこう言う。優しい子だったからね、みんなのことを気遣って夜中にひっそりと逝ってくれたんだと思うの…。愛犬ロッキーのたどった死の転帰をかような形で「解釈」する言葉は、決して少なくない頻度で聞かれる。事態はペット・ロスに限らず、近しく情ある親族の場合も同様だろう。みんなに看取られて、きっとおじいちゃんもあの世で笑ってるよ…。最後だけは苦しまずに逝けて、あの人は絶対幸せだったよ…。
ああ!私はもうこれが、本当に苦手で苦手で!

死は重い。とても重い。親愛の情あればこその哀切は、その死をあるがままの死としてクールに受け止めることを、現世に残された私たちへ決して許さない。その「受け止めきれなさ」が心からあふれ場に漏れ出す現象を指して先人たちは「喪」の概念を創りだしたのではないか。なんてなことを思ったりもする。
だがしかし愛犬の死が、もしくは親愛なる肉親や友人たちの死がどれだけ心的負担になるとはいえ、その死を「ストーリー」に回収することは許されるのだろうか。この反語的疑問文がいつだって私の心内でくすぶってきた。

つまり何を言いたいのかというと、死者の心情を勝手にでっち上げないでくれよ!そういうことなのだ。ごく一面的な定義に過ぎないが「死」というのは、「分からなくなること」「実証可能性から完全に切り離されること」だと思う。嘘を隠さば墓場までという言葉が示すとおり、どんな嘘も本当も、どんな夢も後悔も裏切りも歓喜も仮定も革新も、死んでしまえば全部が全部あとの祭り。それこそが死だ。訪れたその後には決して内面を検証できない世界、ザッツザネイチャーオブザデス。
死人に口無し、そこでは当然ながらあらゆる憶測が可能で、なればこそ安易な憶測は慎まなければならない。語り得ぬものには沈黙を。敬意を。畏怖を。ザッツアマナーフォーザデス。

「死んだあの子は/あの人は◯◯だったよ」なる語りが採用されるのは得てして、いや、ほぼ確実に、残された側が死の現実を、あふれた「喪」の重さを受けとめきれない時だ。あまりの哀切にに押しつぶされそうな、喪失のもたらす空虚さがある種の重力となってのしかかる、そんな時。
決して実証され得ないからこそ、捏造された虚数としての「死者からの愛情」は瞬く間に場を支配する。死がもたらした負の磁場から逃れるための実にご都合主義な、死者の心情を手段に貶める、実に耳心地良いお伽話。
お前の心を守るための勝手な都合で「大切なモノの死」を利用すんなよ!道具に貶めるなよ!正直なところそう思う。

分かる。それが単に「寂しいよ」の言い換えなのは分かる。寂しくてたまらず理屈どうこうでなく思わず口にしてしまう言葉なんだろう*1。それは愚かである程にまぶしい、人間性のかがやける発露だと思う。でもそれは「虚」なんだよ。実証しえない時点で空想/架空の域を脱しえない絵空事。死んだあの人はきっと◯◯と思ってくれていた *2という(実証しようのない代わりに)決して否定されないどこまでも保護的なストーリー。

だがしかし。愛する者の死を、自分に都合良いストーリーに落としこむことの後ろめたさには自覚的でありたい。悼むべきその死に耐え切れないのはあくまで自分の都合だ。そして死者を「偲んで」いる振りをしつつその時、実際にいたわっているのは自分自身の心であったりする。「あの人のことを偲ぶ」という形に見せかけて、自分も周囲も欺きながら、その「死」を実際には自身をなぐさめるための手段として用いるという悲喜劇めいた詐欺行為が行われている!
勘違いしないでほしい。詐欺だの後ろめたいだの言っているけれど、そういう心的メカニズムをけなしたいのでも非難したいのでもない。それは人間として自然な行為であり心情だと思う。ただしその欺瞞性には自覚的でありたい、そういう話なんです。

死者の心情を推測することで圧倒的な「死」の存在に揺さぶられ潰されそうな、自身の精神状態に安寧をもたらそうとする。それは健全な防衛機制であるに違いないが、やはりそこには一種の品の無さが漂うように思う(一方それは人間臭さとも言い換えられるだろう)。もちろんそれは愛情と同義語なのだろうから、下品も下賎も大いに結構!ただしかし、できる事ならそれを「自覚」していたいよな。なんてな甘ったれた妄想を抱きもする。

死を解釈することであり物語に落としこむことは、死を道具化することなのではないか。決して語り得ない、だからこそ神聖な*3領域を汚すことなのではないか。
そうは考えない人がいるのも分かるし、彼らをけなしたいのでも攻撃したいのでもないの。ただただ、好みの問題として、しかし切実にそう思うの。
私は饒舌だ。昨日も今日もそして明日もいつだって饒舌だ。だからこそのルールとして、最低限の倫理としてこれだけは。

語り得ないものに関してはとことん沈黙しなくてはいけない。以上です

*1:僕だってそういうときはたくさんある。なので、僕は決してそういう人たちをこのエントリで非難したいわけじゃない。ホントに。心から。ただとにかく死に際してはそういう考え方が「苦手」だっていうだけなのです

*2:なぜってそう考えたら自分の心がこれ以上負担を担わずに済むから!←脚注になってるけどものすごく重要なポイント!!

*3:この修辞展開に理屈はありません。単なる僕のマイ宗教です(宗って「みんなが集まる」って意味だからマイ宗教って実に語義矛盾だけど)