基央

バンプオブチキンの「天体観測」って恋とか人生とかそういう「答えのでない」ものの正体をそれでも探してあがいては挫折する一連の動的過程(=青春時代)を、「レンズで星をのぞく」という行為に重ねた曲だと思うんですね。肉眼じゃ見えないなら望遠鏡で拡大してほうき星探したらぁ!だっしゃぁぁぁ!!(金ちゃん風)…といった。

この「肉眼じゃ無理でも、何らかの適切なデバイスを用意すれば答えは見つかる」「そこには◯◯星という確たる答えがある」だったら後は根性だぜ、だっしゃぁぁぁ!!(金ちゃん風アゲイン)とう構え、最初にこういう考えが生まれた(つまり「近代」という枠組みの有り様を方向付けられた?)瞬間のレボリューショナルな瞬間風速というのは確かにエポックメイキングなものだろう。
ただし、(過去の遺産にあぐらをくんだ視座からの後付ジャンケンではあるが)そういう突き詰め方は一方で、ある種の未成熟さをたたえたものにも思える。天空という座標軸に位置づけられる「星」、すなわち「点」として措定される絶対的な答えなんてねえぜというポジティブな諦念を引き受けていくことの方が良くも悪くも、異論は多々あるだろうけれど「オトナになる」ってことなんじゃないか。

つまり「点」としてばかりものごとの答えを探すのではなくて、望遠鏡を手放してみようという話だ。すると星座という星の相対的な配置に意味が見えてくる。昔の人は肉眼で星ばかりみていたから最初に星座を思いついたんだけど、現代に生きる僕らは「望遠鏡ありき」だもんだから、星座の発見。そういった「できちゃった婚」的な順序の逆転に驚かされたりする。
星ばかりでなく例えばお月様なんていくら望遠してもでこぼこが見えてくるばかりだったりして、ふと肉眼で見つめ直すとうさぎさんがペッタンペッタンと…それはとてもロマンティックじゃないですか。見えないものを見ようとするやり方がまた一つ見つかる。

星座なんて人間の主観バリバリでとても「真の答え」には見えない、んだけれども、そこには人生に利を与えハッピーをもたらす何ものかが宿っている(これもまた「できちゃった婚」問題で、そういう意味付けに足る星々の配置こそを「星座」と呼ぶのかもしれない)。
星と星座。単なる好みとして、僕は「星座」が好きなんだなあと思う。人間と社会。それは人とのつながりだし、関係の順列組み合わせだし、でも最終的には個人に還元しえない素敵なピクチャーとなる。
それぞれは点に過ぎない星と星をつなぎ意味付ける、決して見えない関係性の糸(それは人間の意図でもある)、記憶と解釈の渦。星の配置は「こと」や「わし」を型どり、そこに密度が「川」を描けば七夕が産まれる。