3.11

東日本大震災から今日で1年。地震津波、そして原発問題に、いまなお困難な生活を強いられつづけている多くの方々の労苦はいかほどたるか。他人ごとではないとは思いつつも、被災された方々に対して直接の援助をおこなっているわけでなし、東京で暮らしている私にはその苦しみを想像すべくもありません。いちはやい復興とともに、皆さまの心身がすこしずつ回復されることを心からお祈り申し上げます。

「あの時」を忘れないようにという思いからからこのエントリを書きましたが、実にまとまりの悪い文章になってしまいました。これは外部の者からみた、被災の現状のごくごく一部です。気をつけたつもりですが、スキャンダルをあおるような過剰な脚色になってしまった部分、歪めてしまった情報もあるのかもしれません。どうかその点はご容赦いただければと思います。

2011年の3月18日〜20日の3日間、私は災害医療支チーム(精神科)として、被災直後のA市をたずねました。当時一般には開放されていなかった東北道を公用車で北上するはずが、原発問題で通過が許可されず、東京から新潟・蔵王を経てA市へ。到着に17時間を要し、2時間の仮眠から活動開始という強行スケジュールでした(それでも、震災直後に現地に向かったDMATなどに比べればはるかに恵まれた環境でした)。そこで訪れたB病院の様子を、すこしだけ思い出してみます。

B病院は精神科の単科病院。精神疾患をもつ方が通院し、時に短期/長期の入院をする施設です。市街地からやや入った海辺に近い雑木林を抜けた環境はおだやかで、療養にぴったりの環境だったに違いありません。中庭には作業療法の一貫で作られた畑がならび、来るべき春にはさくらの花が季節をいろどります。

このB病院はきわめて大きなダメージを受けていました。やはり津波による被害はすさまじく、3階建ての建物のうち、外来診療をおこなっていた1階、入院機能をになっていた2階は全壊し機能停止。市街地への道路はおびただしい瓦礫と木片で完全に塞がれ、文字どおり「陸の孤島」となっていました。3月18日に車幅ギリギリの道路が再開通するまでの1週間を、250人に及ぶ入院患者さんと50人ばかりの医療スタッフの方々が、ただただ「しのいで」いました。

職員の方々のすばらしい機転、患者さんたちの驚くべき協力体制(精神疾患につき入院されているわけで、冷静な判断力がどうしても落ち込んでいるはずです)が功を奏し、3階への避難はすばやくに実行されたとうかがいました。結果、津波による被害者はゼロ。ゼロです。これは本当に、ひとつの奇跡であったと思います。
とはいえ、その生活環境は筆舌に尽くしがたいものでした。電気・ガス・水道といったインフラ設備は壊滅、その中で300人に近い、しかもその大半が(入院を要するくらいの)精神疾患をもった患者さんたちが救助を待たなくてはならない。2階に入院していたすべての患者さんが3階へ緊急避難したため、人口の密集はいちじるしいものでした(単純計算で、人口密度が倍になるわけです)。一部屋に20人が雑魚寝し、不潔な布団にくるまっていました。

夜には氷点下を割る低気温がA市を容赦なく襲い、皆の体力を奪っていきます。残された灯油をつなぎながらの生活ですが、もともと体力の落ちている方も多く、感染症が頻発していました。スタッフの方はできるかぎりの清潔処置や、汚物の隔離を行うのですが、上述の密集状態のなか、感染は少しずつ病院に広がっていました。津波の被害をまぬがれ残されたごくわずかな抗菌薬も、不運にして効果が不十分なことがあり、私が訪問した日にも肺炎で2人の方が命を落とされていました。霊安室も失われ、とくべつな畳敷きの上に白布ではなく毛布で(とても丁寧に)くるまれたご遺体、そのお顔を拝見したときのやるせなさは、どうにも表現できないものでした。

食事は1日2食、1日あたり1,000kcal。小さなおにぎり(ときには乾パン)に一汁がつくだけの簡素なもので、文字通りに「食いつなぐ」状態。簡素とは言いましたがもちろん、裏では栄養師さんや調理師さんが限られた食材から、院内の人たちが少しでも体調を維持できる献立に知恵をしぼり、病院に流れ着いた木材を干してたきぎにし、一日中調理にいそしんでおられました。赤く腫れた両手で懸命に作業している姿から、厳寒の炊事作業の苦労がうかがわれました。

排泄も大きな問題でした。水道設備が損壊しているなか、300人規模の集団の排泄を管理しなくてはならない。ポータブルトイレ(おまる)を駆使しして一日に数回、排泄物を裏庭に廃棄していました。排泄のきまりを守れない患者さんも少なからずいらっしゃり、身動きのとれない患者さんの失禁もあり、院内は糞尿の匂いに満ちていました。し尿の染み付くシーツに包まり、かろうじで暖をとる患者さんもいました。そんな状況の中で、感染対策にせよ衛生管理にせよ、あらゆるメディカル・スタッフの方々のプロ意識、実際の活動には感動をおぼえました。

薬剤の不足も深刻でした。市街への経路が再開通するまでの1週間、流通復旧の見込みがまったく読めず、そんななかで病院の医療判断を一手に担うドクター(実質1人…)は患者さん250人分の処方をすべて見直し、平時のおよそ1/3の薬剤量で、なんとか患者さんの病状を保とうと奮闘されていました。しかし薬剤減量に加えて、生活の苦しさや先行きへの不安が患者さんに与える影響は大きく、さまざまな精神症状が悪化してしまう患者さんがあとを絶ちませんでした。病棟にはときに叫び声が響くなか、ドクターは昼夜なく「9日連続当直状態」で診察に明け暮れていました。

私も少しだけお手伝いをさせていただきましたが、災害用ヘッドライトの明かりとかじかむ手でおこなう診察と処方は恐ろしくハードで、2時間もすれば消耗はげしく手の感覚は薄まり、文字を書くこともおぼつかないありさまでした。衰弱した患者さんの手はどこまでも冷え、スタッフや他の患者さんやがどれだけさすり続けても、肌のぬくもりは簡単には戻りませんでした。それでもさすり続けるしかないという無力感は、どれだけのものだったでしょうか。


地震津波につづく火災で焼け野原になったA市の港近くに落ちていたレコード盤


ここに紹介した様子は、私が見聞きした「病院の被災」の、ほんの一端にすぎないし、おそらく裏ではさらに多くの苦労があったにちがいありません。スタッフの皆さんは(そして患者さんも)懸命に職務にはげんでおられました。自身も被災者であり、家族や住居を失った哀しみのなか、みずからが現実に向き合う時間や余裕が必要な時期であるにもかかわらずです。ただただ頭が下がりました。

非力な医者が何人かお手伝いにうかがったところで問題は一向に解決などしないと打ちひしがれていたところに、自衛隊が到着しました。みるみると瓦礫がとりのぞかれ、院内が清掃されていきます。あの機動力は光のようでした。こんなにも頼りになるありがたい存在があるのかと、そのありがたみをからだの芯から実感しました。
数日後(おそらく3月20日)、簡易発電機からの送電が復活したときのことは忘れられません。小さな白熱電球が一つともった瞬間、身を寄せ合って互いの体温で暖をとっていた患者さんたちの顔が一気に、よろこびをたたえました。電気があれ程までにありがたい瞬間は、後にも先にもないと思います(もう体験せずにすむことを祈ります)。

B病院の他にも、知的障害をもつ方の入居施設、特別養護老人ホーム老健施設をたずねました。慣れない夜勤体制で必死に介護をする女性スタッフさんは疲弊しきり、見ず知らずの医者(私のこと)の前でおいおいと泣いていました。小学校や公民館、市役所やホテルに設置された、さまざまな避難所にもお邪魔しました。皆さん心身ともに疲弊しきっているはずなのに、明るく気丈に振る舞っていらっしゃいました。子どもたちは外で内で元気に遊びまわりながら、そのヤンチャな様子はあまりに「良い子」すぎるようでした。子どもたちもまた、一生懸命に被災と格闘していたのだと思います。

ご家族を失った方がいました。不安で急に寝付けなくなった方がいました。日常の内服薬がなくなりパニックを再発させた方がいました。自宅を失った事実を理解できず、避難所を寄り添い歩く認知症の老夫婦もいました。被災後1週間のA市には、そういうシーンがどこまでも広がっていました。
その一方で、私が滞在したたった3日間でも、徐々に道は広がり電気が戻り、わずかではあるけれど回復の兆しを感じることもできました。

あれから1年たち、生活も漁業も、少しずつではあるけれど復興が進んでいるという報道がなされています。その一方で、癒えぬ部分もまだまだ多いにちがいありません。
くり返しになりますが、いちはやい復興とともに、皆さまの心身がすこしずつ回復されることを、心からお祈り申し上げます。

わが美しき故郷よ〜朗読〜 畠山美由紀

A市出身の畠山美由紀さんの歌を。震災で亡くなられた方のご冥福もまた、心からお祈り申し上げます。