みをまかせ

ゴールデンウィークの前半を利用して、妻が実家に帰っている。書き置きは2行だったので離縁宣告ではなさそうだ。ほっとしている。

妻のいない夜に何をするかといえばごくごくと酒を飲むわけで一人でも二人でも大勢でも飲酒はいつだって実に愉快、それにしても最近は「すなおに酔っ払う」ようになってきた。春の風をうけながらの缶チューハイは私をほろ酔わせるのにピッタリだし、ハニー・コーンやベティ・ライトなど気の利いたソウルミュージックにあてながらよく冷えた奈良萬会津中将を1合もいただけば気分はフワフワと浮遊し始める。
思えばアルコールの味を覚え始めたハタチそこそこのあの頃、コンパなどで飲み放題の安酒を浴びるように飲んでいたあの頃、僕の心は「酔ってなるものか!」だった。いやモチロン酔っ払いたくてお酒をいただくのだけれど、それはアルコール成分との「一騎打ち」なのであって、お酒と僕は互いに対峙しては火花を散らしていた。永遠の負けいくさ。僕の人格はまだずいぶんと硬かった。

今は嬉しいんだよね、アルコールが身に染み入ってきて静かに酔いが回り始めると嬉しい。「あら、いらっしゃい」というおもてなしの感覚で酩酊を迎えいれている。人は酒を飲んだら酔っ払い、酔っ払うとだらしなくなり、だらしなくなると恋みたいなメールを送り、恋みたいなメールを送った翌日は二日酔いの頭をひたすらかきむしる。そこに身をまかせている自分が、何とも言えず愛らしい。
「対決ムード」の季節を通り過ぎ僕とアルコールは公園のベンチに横並び肩を寄せあい、同じ夕暮れを眺めながら語らうのだ。いや、アルコールは最初から僕と同じ方角を向こうとしてくれていたに違いなく、かたくなな僕のハートはそれに気づく余裕がなかった、それだけの話なのだろう。

妻のいない夜に何をするかといえばごくごくと酒を飲むわけで一人でも二人でも大勢でも飲酒はいつだって実に愉快、けれどね。その裏で妻がいないのはやはり寂しい。とても寂しい。昨日は友人のしあわせそうな結婚式だったから、よく笑うすてきな新郎新婦だったから、ますますそう感じられるのかもしれない。

日頃から泥酔しては深夜の帰宅を繰り返すくせにずいぶんと都合のよい話なのは百も承知で、それでも、家に帰って誰もいないのはすごく寂しい。泥のように酔っぱらってはトイレの場所を間違え洗面所を濡らすお前がどの口でそんなたわごとを言うのかという話ではあるけれど、それにしてもやはり。それは「寂しさ」なのだと思う。
10年近く一人暮らしをしてきたが、独り身の時分にはこんなにも「寂しさ」を感じることはなかった。でも今こうやって結婚して、妻にただいまやおかえりを言える生活をたった1年だけでも続けてみると、目の前にはくっきりと輪郭を持った空っぽというか、妻の不在が実在しているというか、心の中にはやはりそういった空虚なものがありありと感じられるのだった。

一人で生活している時の僕はひょっとしたらアルコールよろしく、寂しさと「対決」しようとしていたのかもしれない。たとえば家族とか、たとえば恋人とか、そういったあたたかな「あなた」がいなければ克服しようのない寂しさを相手に一人挑んではのたうち回る。そんな勝ち目のないケンカを自分から売っては連戦連敗を重ねていた。そして「否認」と呼ばれるであろう類の防衛メカニズムを駆使してこううそぶいていたのだ。「惨敗なんてなかったし…ていうか、そもそも最初から寂しくなんてなかったし…」。永遠の負けいくさ。寂しさを「そもそも感じていなかった」というのはきっとそういうことだ。

薄々感づいてはいたんだろう。孤独にフタをして口笛吹き吹き「フタの中には何もありませんよ〜」とおのれをいつわり続ける生活には限界があるし、心の圧力釜はバクハツ寸前。
独身の友達に「結婚しようと思った決め手はなんなの?」と聞かれることがままある。それっておそらく圧力釜に少しずつひびが入って、寂しさの蒸気がぴゅうぴゅうと漏れ吹き出はじめたから、つまり「寂しさに気づいちゃったから」なのだ。だからこそ、寂しさと対峙しては負けいくさを挑むのではなくて、公園で同じ夕暮れを眺めながら寄り添って身をまかせて…。結局はそんなアレだったのかもしれない。結婚したいと思ったのって。それにあの時、僕は確かに恋をしていたのだし。今だってそうだ、きっと恋をしている。

酔いであれ寂しさであれ、弱い自分がまざまざとさらけ出されてしまう文脈において対決ではなく、寄り添い身をまかせるやり方で生きていく。それはある種の逃げであるのだけれど、とても心地よい逃げなのであって、なんというかな、しばらくは逃げ路線でやっていこうかと思う。弱さとは対峙するものではないし、退治なんてできようもない、ただそこに寄り添うものなのだ。
不在の妻よありがとう。僕の人生はあなたにゆっくり育てられています。