半熟英雄

「ツッコミ待ち」って言葉があんまり好きじゃなくて、なぜって何だかツッコんでる側、何か面白いことに気づいた側の、「優越感」めいたものをそこに感じてしまうから。本人も周りも気づいてないことに僕は気づきましたよーみたいな。


「ツッコミ待ち」の本来の意味は読んで字のごとく「主体が意図して意識的に<ボケ>を行い、未だ<ツッコミ>がなされてないがゆえにあらゆる<ツッコミ>の可能性/形態に対して開かれた状態」のはずで、それはボケからツッコミへの信頼であり愛情だと思う。なんでってツッコミのないボケって、正しい意味によって隅から隅まで構成(認識)されたこの世界にあって存在が不安定すぎて生きていけない。Noツッコミ,Noボケ。必ず誰かが突っ込んでくれるって信頼(思いこみ)がないと恐ろしくってボケてなんていられない。ということはあれか、世の中のボケってのは常に「広義のツッコミ待ち」として世に生を受けるわけで、その中でも特に「ボケが発された<場>とツッコミが与えられる<場>に時間・空間的なズレ/断絶があるもの」言ってみれば「狭義のツッコミ待ち」って分類が可能で、それこそ僕たちが日常用いる「ツッコミ待ち」なのかもしれない。
また、そんな「ツッコミ待ち」応用編として「意図されざるがゆえに未だ<ボケ>としては世界にない諸々の<現象>を、<ツッコミ>を作用させることで初めて<ボケ>として生まれ変わらせる」ってのもあると思う。この場合は、ツッコミが実行されたことで後出しジャンケン的にボケの存在が措定される。ツッコむことでその対象をボケにするっていうのは、対象に対する深い洞察と冷静な判断がなくちゃできない行為だ。
以上2つの意味ってのは、前者が「ボケ側主体のツッコミ待ち」、後者が「ツッコミ側主体のツッコミ待ち」って言えるんじゃないかと思う。これらの意味で用いられる「ツッコミ待ち」という言葉は嫌いじゃない、いやむしろ世界の解釈に対する自由とパンクスピリットに満ちていて大好きだ。
まあ何にしろ両者は相互に補完的な意味を持っていて、ボケがなければツッコミはないしツッコミがなければボケはない。ってことで、互いを求めつつ距離をとる二体円運動の力学こそがボケとツッコミ。ではないだろうか。


で、話は戻って僕が苦手な意味での「ツッコミ待ち」さんに再び登場願うと、何だか2つ目の意味のツッコミ待ちが本来を見失っちゃってるケースが多いように思う。ツッコミはあくまでボケがなくては存在できないから、対象への畏怖や尊敬を書いたツッコミはダメです。ダメですって小学生かお前はって話だけどダメなものはダメで、そのダメなものが多いのです。
もう何ですか、街を歩けばちょっと何かを見つけるたびに「あれツッコミ待ちじゃない?」とか言う人の多いこと多いこと。勝手な推測だし、むしろ邪推に過ぎないのかもしれないけど、そういう人ってその「ツッコミ待ち」なものをみつけたことに対してすごく優越感というか優劣決定!というか、そういう感情を抱いているように見える。俺の方が優れてるから気づいたんだぜ、みたいな。何なんでしょうかあれは。あと、「気づく」ことで周りに自分の能力をアピールしているというか、こんな些細な所にも気づける私ってすごくない?的な。ああいうの、非常に品がないと思う。
対象への愛着じゃなくて自己愛の発露としての「ツッコミ待ち」な場所つまり「ツッコミどころ」を追い求めていってる感じ。「ツッコミ待ち狩り」やってんのかと言いたくなる。


あと、これは脱線で、パターンとしては似てないけど最近鼻についてしょうがないのが「オイシイ」ってやつ。世の中みんな、猫も杓子もとまでは言わないけど相当な割合の人が「オイシイ事件狩り」に終始してて、不幸や災難が身に訪れると、それだけでシメたとばかりにスポットライト、「ま、オイシイからいいけどね」とか言っちゃって。もう気持ち悪くてしょうがない。「オイシイ」っていう概念は降りかかった災いや不幸せを笑い飛ばして心をチアにするため、世界の意味を転覆させるための「手段」であって、それは言ってみれば「絶望の中<望>を信じる(by 中村一義)」って話で、どんな不幸でも「オイシイ」って言っとけばそれだけで意味がひっくり返って笑い飛ばせるようになるわけじゃない。「オイシイ」が目的化しちゃってて、それはものごとの順序を完全に取り違えてる。形骸化した「オイシイ」は、本来の「オイシイ」を求めるあり方に対して極めて失礼で不遜であるように思う。
もちろん、病は気から、じゃないけど、不幸や災難を笑い飛ばすために、必要と十分を取り違えているのは百も承知で「オイシイ」って言うケースはある。そう言うことで気がまぎれるかもしれないからって、言霊の力にすがる形で声に出される「オイシイ」。それは全然ありだと思う。西原理恵子ぼくんち」の最終話で二太が「じいちゃん/ぼく知ってんで/こういう時は笑うんや」って言うときみたいなケースとかがまさにそれ。


さてさて。長い長い前置きと脱線を終えて、ようやく今日の本題に入ろう。こんなくそ日記をここまで読んだ奇特な方、本当にありがとうございます。からくりサーカスより長い前置きで申し訳ないです。
すでにスクロールして画面にからは消えちゃったけど、今日本当に問題にしたかったのは本日の画像。本郷通りにまた1つラーメン屋ができてた。セサミ亭の隣、寿司ホンがあったとこ。これで破天、瀬佐美亭、そのラーメン屋(名前忘れた)と3軒ラーメン屋が並んだことになるよ、すごいぞ本郷通り
その3件目、僕のフェイバリット味であるとんこつがメインの店ということで、それなりに期待して入ってみた。そしたら何たることか、注文してからラーメンが実際に出てくるまでに本当に20分かかるという、シェスタ大好きイタリア人でもぶち切れ間違いなしの極めて時間にルーズなラーメン屋。おいおい、ラーメン1杯に何の冗談かと。ひょっとしたらあの店員さんたちはうんちゃら原人とかで時間の概念がごっそり欠如している、っていうか、はなからそういう概念を司る領域が脳に存在しないのかもしれない。時間の概念も持たずにこの現代に紛れ込んで、しかも世界有数に時が人間を動かす、ミヒャエル・エンデが卒倒するくらいあくせくしたこのコンクリートジャングル東京で生活をしていかなくてはならないのだから何と不幸なのか。生まれた時代も地域も悪かった。怒りを通り超して訪れたこの気持ちは何?…どう…じょ…う?そう、同情!もはや彼らには同情を禁じ得ない。未だ来ぬ今日のラーメン、その代金は僕からあなた方へのチャリティーだと思うことにする。今度黒柳徹子とか親善大使系の人呼んできてあげるからいっぱい宣伝してもらいなさい。


ってあーまた話が脱線しちゃったよ、アホか自分よ、問題にしたいのは画像、画像なんだ。
画像はそのラーメン屋の伝票で、3つの言葉が書いてある。上から順に「正、もやし、半熟」で、「醤油(正油)ラーメンに、もやしと半熟たまごをトッピング」という意味。気になってしょうがないのは「半熟」って欄。画数多過ぎやしないだろうかと。びっくりして慌ててメニュー見て確認とったんだけど、別にその店に「半熟じゃない」たまご(黄身まで固いゆでたまごetc)のトッピングメニューは無い。だから伝票には「たまご」とか「タマゴ」、もしくは「玉」とかかけば十分にこと足りるのに、たまごっていう情報を敢えて消し去り「半熟」で攻めてくるというそのスタンス。無駄極まりなし!何、半熟って漢字書けるって自慢したいの?難しい漢字も書けるよって?「醤油」はちゃっかり「正」の字で省略してるくせに!
さすがラーメン1杯作るのに20分かかるラーメン屋、注文とる人まで含めて店ぐるみで全員IQ激低いな。汁の味も何だか薄くてぼやけてるし。あー気づいちゃったら気になってしょうがない何だこの「半熟」って…。あ、ひょっとしたらこれって…「ツッコミ待ち」??


ナチュラルに思ってしまった自分を戒め罰するための、長すぎる枕なのでした。日頃、安易に使わないようにしてるのに、気が付いたら「ツッコミ待ち」って思テタヨ。ニッポン、怖イノ所ヨ。
まさかと思った。ツッコミ待ちなら何でも良かった。今は反省している。とは僕の談。
うっわー、こりゃ一本とられたー、って感じ。あのラーメン屋の人たちには「あなた方のファニーなプレイの数々は十分「オイシイ」ですよ」って言ってあげたいです。
それでは失礼します。そうそう、その店のラーメンは何だかんだで結構おいしかったです。