ディクショナリイ

しゃべる辞書なるシロモノが世の中には存在する。辞書なのにしゃべるんだよ!すげくね?!というタイプの電子辞書。いやこれはすごいと思う。私が小さなころなんて機械が喋るすなわちSFの世界、トモ…ダチッテナ…ンデスカ?的な発音が想像上の世界ですら関の山だった。ところが今や辞書がそ知らぬ顔で「井の頭線の線路ぞいには、梅雨の訪れをそれとなく告げようとあじさいが恥ずかしそうに顔をのぞかせています」なんてな音声を発してくれる(んでしょ?多分)。これは事件だ。ひと昔前までは紙媒体以外の可能性がありえなかった辞書が、怯えることなく堂々と声を発している。辞書もついにここまで来たかという感がある。いやあマジすげえ、がんばったよお前おとこの中のおとこ(ないしおんなの中のおんな)だよ。


と言いつつもここでひとつの疑問が浮かぶ。ホワッツザクエスチョン何が疑問の対象になるかと言えば「辞書はふつう喋らない→なのにしゃべる→生き物っぽくてすごい」というロジックだ。なぜ私たちは「辞書」としての性質(生き物ではないのだから喋らない)を思考の出発点に据えてしまうのだろうか。「しゃべるのはふつう生き物→でもこいつは辞書→せっかくしゃべることができるのに生き物のポジションを捨てて辞書に身をやつすなんてどれだけ退化してるんだ、アホか」という驚き方もあり得るはずではなかろうか。
つまり辞書もついに生き物っぽくしゃべるようになったかあ、と思えるならばそれと同じ理屈で、しゃべられることの価値・特権もついに辞書(非生物)まで降りてしまったのかあ。という思考が可能であるはずだ。わざわざしゃべることのできるものが辞書みたいなものにならなくても…。という。まあ辞書さんには失礼千万な考え方ではあるのだが。


なぜ私たちは「辞書なのに○○」という方向性でばかりものごとに向かってしまうのだろう。そう考えるほどにこの事実はけっこう不思議だ。しゃべる、ことばを使う。それら人間の優位性だけはぜったいに崩したくないという無意識がそうさせるのだろうか。人間らしさなんてなんだい、所詮はその程度のものじゃないか!とはなかなか思えない。
以上、私としては最近いちばんくらいの大きな驚きなのだけれど伝わりにくそうなことこの上ない。しゃべる辞書より日本語が下手くそだ。