1粒で300メートル

おとこの子ならみな誰しもが巨大化ヒーローになることを夢みるもの。小さなころ左手を腰にあて右手を天につき出しあこがれのヒーローと同じようにシュワッとポーズをとった。そんな記憶が誰にでもあると思われます。合体ロボットもこの「巨大化」という欲望のバリエーションのひとつでしょう。自身が大きくなれなくとも、物理的にサイズの大きな主体と自己を同一化することができるのですから。とまれおとこの子は大きくなりたがるです。
一方おんなの子は巨大化しようとしません。まとうコスチュームを変えるのみです、巨大化する女性ヒーローを見た試しがありません。結婚式で新譜がお色直しをしたがることはあっても巨大化したがることはまずないでしょう。他方口にこそ出しませんが新郎側は100%「ああモンツキハカマとかどうでもいいしカマーベルトとか締めてねーでどうせだったら巨大化して入場してえなー」と思っています。例外はありません。


そう言いつつも思春期は照れ屋さん、小学校も高学年になると徐々におとこの子たちはあれほどあくがれた巨大ヒーローへの熱望を減じ、スポーツでの活躍やオモシロおかしな発言に少しずつ興味をもつようになります。わずかながら萌芽をのぞかせ始めた自我、一時はおんなの子に軍配をゆずっていた身長と体格のスパートがそれを後押しするかのようです。
そう、頃合いが到来、中学生あたりで男子はばくはつ的に身長を伸ばすのです。精神的にはまだまだ「こども」の少年たちではあるけれど、まずは身体から青年への階段をのぼり始めめます。あの日空を仰ぎ見上げた巨大化ヒーローの足下を離れることを、ひとは成長と呼ぶのかもしれません。


身長・体格に見る劇的な成長の原動力、成長期すなわち育ちざかりを駆動するエネルギーとはつまり、心のおくそこに封印された「ヒーローになりたい」だと思われます。なぜ成長期が起こるのか?それはひとえにウルトラマンになりたいに尽きるのです。
おそらくあの時期の男子連中たちは、表面上は「もうガキじゃねえんだから巨大化ヒーローかっこいいとか言ってたらダセーし」と道ばたに唾を吐き捨てうそぶきながらその実できることなら身長40mに達したくて仕方ない。かわいいものです。ブリーフをトランクスにし初めて整髪料をつけ、チャラチャラした毎日をおくることで幼かった自分への決別をかみしめながら、結局は巨大化してわるいやつらと戦いたいというこのナンセンスそしてイノセンス。加えて、身体がその欲望にバカ正直に応じてしまっているというアイロニー
げへへ、口ではイヤイヤ言ってるけどカラダは正直だよ!ほーらこんなに大きくなってるよ!ああもう三流ポルノのような恥ずかしさです。ティーンもなかばの良い年をしてウルトラマンになりたがっているのですから。男子中学生なんて全員、成長痛というSMプレイにむせびなくメス豚と言えるでしょう。



ここで注意したいのは、種としての限界がわたしたち夢見る男子をいつまでも身長40mにしてくれないという事実です。成長期という、むかし憧憬をいだいた巨大化ヒーローへの命がけの跳躍を、わたしたちは人間であるというあまりに現実的なファクターが徹底的にうち砕きます。巨大化したいぼく、できないオレ。その間で舵取りにゆれる曖昧なやじろべえをあらわしたのがグリコのポーズなのです。正面に記された「グリコ」は「ニキビ」のアナグラムなのです。濁音の数がいっしょですから間違いありません。
巨大化という身体的欲望を、でも僕たちは「人間」なる限界の中にいるという身体的ファクターがはばむ。かような混乱の中にあるせいで、その心理的な軋轢から逃れる防衛機制として、あの頃のぼくらは中2病という難攻不落のやまいにかかってしまうのでしょう。身長40mになれない身体を代償するかのように肥大化した自意識が、オトナは何もわかってない同級生の中でオレの趣味(FMで聞いたMaroon5とか)がいちばんとがってる世間はギマンのかたまり。今思えば目も当てられない独善的な観念の罠を呼び込むのです。ほほえましいったらありません。もうこのエントリ、日記でもなんでもありません。