晩秋にしてananを思う

表紙に写る宮崎あおいの天をつらぬくかわいらしさにノックアウトされ病院の売店で久方ぶりにananを購入、ページをめくればインタビューページを飾る彼女の写真にまたもや相好を崩す。こういった何とも言えない「いやぁ、かわいいなあ」という気持ち、満ち行く海面にも似た静かな胸の高鳴りをどのように伝えれば良いだろう。


インターネットを駆使すればものの5分で「エロ」は収穫し放題だ。どんな趣味でもどんなパーツでも被修正も無修正もよりどりみどり。直截的な「エロ」はもはや安値の極限に達しようとしている。だから必然、お金を払ってでも得たい快楽とはダイレクトに私たちのエロ願望を満たすそれらのwebメディアとは異なり、つまり私に限った話をするならば、今週号のananに見る宮崎あおいであり隔月のMORE(ファッション誌)を求める気持ちは無修正動画がどうこうといった欲望と明らかに一線を画する部分に端を発している。MORE紙面を飾る「オシャレに着飾った女の子」のかわいらしさ、そこには私の脳内物質系を幸福な形で満たす何かしらの要素がこれでもかという程に潜んでいる。


ページをめくりながら理屈抜きに「いやぁ、かわいいなあ」と頬をゆるめる時間。それがどれほど幸せであることか。ひょっとしたらそれは「性欲」のバリエーションに過ぎないかもしれないけれど、それにしても従来型の性欲であり「エロ願望」とは明らかに違う充足感がそこには満ちている。大人のエロ本、つまり「プラトニック・エロ本」としての価値が「女の子がかわいらしく着飾った写真」の中にはある。
インタアネットの世界においてヌードやヘアー、そういったものがもたらす快楽はついにタダになった。だからこそ雑誌という「有料メディア」の中に残ったのは、純化された「かわいらしさ」だった。それは(僕はその言葉の意味を正しく理解していないのだろうけれど)「萌え」と言い換えることができるのかもしれない。


限られた資源(金銭)をどこに使うか?という困難な問いに対し消費者の導き出す解はここ数年で大きく変容を遂げたのではないか。一昔前であれば皆が「エロ」の部分に消費財を費やして(エロ本やアダルトビデオに金銭を投資して)いた。しかしそれらの欲望は今や、消費の場に身を投じる必要など無しに極めて機械的に、検索ワードひとつで容易に満たされる。そこで生じた「剰余」を何に向ければ良いのか。
答え(の1つ)は既に出ている。上に見てきたように、代替案のひとつとして「いやぁ、かわいいなあ」という部分を想定することができるだろう。お金を払ってでも純度の高い「萌え」を得たいという欲望は、あるいはひとつの時代精神なのではないか。これは決して馬鹿げたおとぎ話ではない。ような気がしてならない。


エロメディア・萌えメディアをめぐる消費形態の変容。この推論は「ananやらMOREやらが大好き」といった、ただ「私」にのみに関するごく私的事例を一般論へと短絡した、帰納法が陥りやすい誤謬の典型例みたいなものだけれど、それにしてもこういった傾向って最近けっこう顕著なのじゃないかしら*1宮崎あおいのページを繰りながら、ついそんな風に感じてしまうのだった。女性誌は今やプラトニック・エロ本であるというテーゼを高らかに宣言したい。

*1:perfumeのブーム、AV女優のアイドル化なんかは完全にこれ。