ハンター

不幸の星のあってかあらずか人間関係に恵まれない、所属する場に関する運がとんとない。そういったタイプの人が世の中には存在する。自分に合った会社についぞ出会わない、どうにも男運がない。レジで不愉快な店員にあたる、渋滞にまきこまれる。確率という名の網の目をすり抜け日々、不運の波が寄せては返し彼/彼女をぬらす。といって彼らは単なるクレーマーなどではなく、むしろその望まれない境遇を諧謔とユーモアの精神でで笑いに昇華したりもする。うーむ、なぜ彼/彼女だけがそんなにも不満だらけの境遇を…と考えるとやはりおかしい。毎日毎週のように不幸が訪れる環境はどうしても考えにくい。不自然なほど、彼らは不幸に見舞われ「過ぎて」いる。ダイ・ハードならまだしも、現実世界でブルース・ウィリスの境遇(頭髪は除く)におかれる人間の数はそう多くなかろう。まるで彼らは自ら不運を呼び寄せて、あるいは望まれない環境へ突き進んでいるようだ。


彼は無意識のうちに不満の種、不幸への片道切符を探し求めている。彼女は絶え間ない不満の中に無上の満足を見出している。宿る実証不可能性はこのアイデアに決して科学の名を与えないが、しかしそう考えることは一つの選択肢ではないだろうか。運がないのではなくてそれは自らの意志、自分ではそうと意識してはないのだけれど、鬼さんこちら手の鳴る方へ。無意識が自身を不幸の泉へと導いている。
意識下には我が身の不幸を呪いながらも、無意識の快楽原則は常にそれを希求、慢性的な「不満」状態に自身をおこうとする。「アンサティスファイド」なる精神状態がどれほどの落ち着きを、いかような実益をもたらすのか。対照実験のしようが無い現状でそれを知ることは誰にもできない(本人ですら!)が、ただこの仮説に一理を認めるとするならば確実に言えること、それは「当人の無意識はその方(不幸な方が)が良いと感じている」ということだろう。敏感にはりめぐらせたアンテナから積極的に不満/不幸のシグナルをキャッチ、迅速にそれを回収しにかかる。不幸の中にこそ幸福があり、不満が生活にはりを与えるのだ。
しかしまあ、我ながらインチキ臭い。


サークルの後輩Aさん。彼女はこの「不満狩り」業界の産んだまさに麒麟児風雲児、センシティビティ抜群の超高性能「不満センサー」を内蔵した紛れもない天才だ。先日は日曜日の昼下がり、二日酔いの頭をかかえながら共に昼ご飯を食べていたのだがまあ。出るわ出るわ。またたく星の数ほどにつむぎ出される不満とうい名の星々。私には確かに見えた、あの時テーブルの上には新しい銀河が創出されていた。職場、楽器、芸能界のゴシップ、自身の現在過去未来。あらゆる不満の材料に、全国を渡り歩いた熟練のバルーン・アーティストの手際でみるみる形を与えていく。
例えばそう、「気が付けばオールするほど楽しかった」飲み会があったとして、批判精神のかけらも持たずにのうのうと垂れ流しの人生を生きる私のような凡夫であれば「いっや〜最高に楽しかった!」とバカ丸出しの感想をもらす。しかし彼女は違う。「テーブルの人員配置に何かひっかかるものがあった」と、不満を射止めるまなざしには一部の隙も存在しない。満足は敵、不幸を鎧にまとった平成のジャンヌダルクは不満を求める鉄の姿勢を決して崩さない。遺憾なく発揮される縦横無尽の不満マシンガン、つぶてを感じた私は台風ににひるんだ山羊のように身をすくませる。こごえる雪の夜、マッチを擦った彼女の前に現れるのは決して幸福のイメージなどではなく、あたたかな「不幸」のビジョンなのかもしれない。


なぜそこまでして不満に満たされたいのか。人生のどこかの段階で感情の基底を「不満」「unsatisfied」に置いたがゆえに、無意識に不満というなの母乳を探し求めるのだろうか。嫌みは100%抜きで、これはすごい才能だ。最高にすてきで、抜群に面白い。
天才にただ敬意の念を表したい。感動をありがとう。