まんぷく

当直がたてこんでいて日記をつける時間もなかなかとれなかった。お盆に実家に帰ることもできず(心のふるさと苗場には万難を排して帰郷したが)、併せて小中学校来の友人たちとも顔を合わせることもできなかった。
当直の日と当直明けの日がひたすら交互に続き、もう今日が何曜日でもいーよ、てかA曜日とB曜日だけあればこと足りるから月火水…とかいって7個も曜日あんのムダでしょムダ。直曜日と明け曜日で十分なんだから大阪府の財政感覚で曜日もスリム化して、もうあれだ、カレンダーも2列×15段で作り直そうよ。と自暴自棄に陥りもしたけれど、大胆な金額の給料をいただきしかも今日はしっかり丸一日のオフ日。のどもと過ぎれば何とやら、すっかり上機嫌で昼ビールをたしなんでいる。


当直ラッシュ時の唯一ではないにしろ数少ない楽しみのひとつが『君に届け』だった。いまさら感はあるものの話題のマンガと言うことで購入、見事どんはまり、当直が終わるたびに家に帰って缶ビールを空けては1冊ずつ読み進めることで翌日の勤務へのモチベーションを保っていた私。


君に届け (1) (マーガレットコミックス)

君に届け (1) (マーガレットコミックス)

この人智を越えた胸キュン指数、不整脈が出そう。


この手の少女マンガ(っていう枠で良いのですかね)を読んだことがそんなにないので他との比較はできないのだけれどもうこのマンガの破壊力といったらなくて、そのまま人殺しができそうなくらいの、猛暑だからボンネットで目玉焼きができましたくらいの、もはや「カロリー」といって差し支えない常軌を逸したときめき熱量に任意のページが満ちている。たった今ようやっと7巻を読み終え「何でチョコ渡せないのよー、もう…」とバレンタインのエピソードでなくても鼻血がふきだしそうだ。8巻発売の際には併せてボスミン綿球を用意しておく必要がある。まあとにかくほとばしる甘酸っぱさに私の胸はわしづかまれ、まさしくお腹いっぱい状態である。


加えて、主人公の爽子ちゃんにありし日の自分を投影しながら、周りのキャラクターたちに今の自分を重ね一緒になってやんややんやとその恋を応援するという構造がおもしろい。表面上は「おくて」のヒロイン・ヒーローにやきもきする「ふつう」のクラスメイトたちといった風情になっていて、私は男なので女性のきもちはようわからんけれど、きっとその両方に自分の感情を移入しながら女の人たちはこのマンガを読むのだろうか。ときには自分の過去の赤恥ずかしい恋愛事情などが胸をよぎって「うぃあー」とかわけのわからない奇声をあげたり、置き場のないむずがゆさから逃げ出すために部屋のドア開けてすぐ閉めるみたいな珍動作におよぶこともあるのかもしれない。
このマンガのメイン読者層はおそらく「初恋」を通過した中高生以降であろうという仮定のもとで話を粗雑に単純化するならば、彼女たちは爽子ちゃんに「うぶだった自分」を投影しながら、自分のアドバイスを代弁してくれる周囲のキャラクターに多少なりとも「恋」を経てきた「現在の自分」を重ねている。つまり「自分」が再帰しているというか、「時差」をギミックにした「今の自分が過去自分を見守り応援し背中を押す」「過去の自分の逡巡に今の自分の胸がぐいぐいと動かされる」といった自分をめぐるグルグルして出口のない閉鎖回路みたいな状況が生まれている。のではないかなあと思う。


ともかく、共感力つうのか自己投影力というのか、女の人のそういう底知れないパワー(映画の主人公と一緒になって泣く、他人の恋の悩みに気をもむなど、狂っているとしか思えない種々の奇行)のみなもとを垣間見たような気分になった。様々なひとの気持ちになってことを考える能力はこういうところで涵養されているのかもしれない。他人の(過去や未来の自分の)恋や、それに限らずさまざまの心模様に思いを馳せる能力に関しては男とは比べものにならないからな、女の人って。


ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

本文とは関係ないけれど、こちらもちびちび読み進めています。


さて話題はガラリと変わって、両親に顔も出せないお盆であったと冒頭に書いた。今夏は残念ながら聞くことが叶わなかったが、久しぶりに帰った実家で耳にする、男の子を育て上げた母親のセリフ大賞は何をおいても「そんなんじゃお腹減るでしょ」である。
親子関係を一種のロールプレイングと考えたとき、<息子>サイドとしては腹パンパンなのである。たとえば朝食の風景、朝はいつもコンビニおにぎり一つくらいのものだけれど目の前には充実のメニュー。せっかく作ってくれた手料理であることだし、一人暮らしを経て自炊の苦労も身にしみており実家時代に比べそのありがたみははるかに増している。なんのかんのと馴染みの味である上に箸の進み具合が発する「やっぱり実家のご飯が一番だなあ」感は<親子>プレイの上できわめて重要であるとの認識も手伝って、いつもよりかなりがんばって食べる、そりゃあもうこれが仕事だと思ってがっつりと食べる。そして労働の余韻にひたりつつ一服茶をすすり、皿はあえて洗おうとせずに(これもまた「その方が母親の<母>としての意識をくすぐり充足させられるだろう」との見込みによる、「しない」という形での一種の労作業である)ぼんやりと腹をさすっている。いやあー食った食ったがんばって食った、こりゃ昼飯いらねえくらいだなーと満ちた腹をなでる脇からそれはやぶからぼうに繰り出される。そんなんじゃお腹減るでしょう?減らねーよ。昔はもっと食べたじゃない?それは昔だよ。


わかる、これが母一流のやさしさであり思いやりでありまさしく母性と冠されるものであることはわかる。それこそ『君に届け』ではないけれど、女性もちまえの共感能力を存分に駆使し息子の腹の塩梅にまで想像を広げるのだからこれほどありがたい話はない。感謝の気持ちでそのセリフを、その背後に満ちた愛情を受け止めなくてはならない。しかるに<親子ゲーム>としての正しい采配とは、母の話に誠意を込めて乗っかり、お昼までにお腹が減ったケースに備えて小さめのおにぎりでの2、3個でもにぎっておいてもらうことに違いない。こんなちっちゃいので足りるの〜?もう足りてんだよ。
こういった「腹具合ケア」がその有効性を発揮するのは自分で食事をとる術をもたない幼児、ないしは経済的に全く自立していない中高生・大学生を相手にしたときに限られよう。こちとら自分の人生と同じだけの時間、自分の腹時計と共に時を刻んできたのである。共に歩き共に探し共に笑い共に誓ってきたのである。胃袋と共に感じ共に選び共に泣きそんな日々を描きながら共に背負ってきたのである。そして今私は猛烈に失望している。胃袋とコブクロという単純に過ぎる連想ゲームに身を任せてしまった自身に対して。
母の誤りは2点。まずこちらの食事量・食欲を「成長期のそれ」から変化していないと見込んでかかったこと。拝啓母さん、こちとらすでにお腹いっぱいです。そしてもう一点、たとえ腹が減っても息子は自分で何とかできるということ。拝啓母さん、こちとらコンビニでサンドイッチを買う方法もお釣りのもらい方も知っています。




実家のおにぎりにこんな上等そうな海苔が巻かれることはない…。


以上、お得意の共感の情にもとづいた女の人らしい思いやりの心は得てしてとても嬉しいのだけれど、ときにそれがありがた迷惑なとき、やさしさの押し売りになってるときってあるよね、女の人とご飯食べるときに「こっちも食べない?」とかいって自分の分もくれたりするのとかって結構めんどくさかったりするし、「大変そうだね?私がやっとくからいいよー」で明らかにこっちの段取りが狂わされて「でも相手は明らかに善意でやってくれてるから断れないし文句も言えないしなあ…」的な場面とかも往々にしてあるねという話。そういうやさしさが大事なのはほんとわかるんだけれども。
いやあ、貴重な休日を2時間以上つぶして何をやってるんだ私は。