カサビアンの"club foot"

昨日の雨のおり。「それほどの距離でもないから傘をさすのは面倒」に心のレバーを倒した私は、ケジャンのめっぽううまい白金高輪の韓国料理屋へ向かうべく職場出口の自動ドアをくぐりピロティーを全裸で通り抜け、左手にはビニール傘右手は雨降りくまの子の体勢で小走りに、最寄り駅へと向かう循環バスに駆け込もうとしていた。傘なんていらん!バイト時代の先輩N、その奥さん、高校同期のUと愉快な週末のひとときをすごす手はずなのだ。カンガルーでない私の全裸にはポケットがない上に両手のそれぞれに役割が付された状況下、やむなく口にくわえたiPodからはカサビアンの"club foot"。金曜日の、夜が、始まる。


と、例えばそんな文章があったとする。するとそこでは「カサビアンの"club foot"」に何かしらの「意味」「文脈」が読み取られてしまう。この曲を知っている人なら「お、波乱の予感をあらわそうとしているわけね」と読むだろうし、「最近出した新譜の下世話なかっこよさにヤられてカサビアン聞き直してるんだろうな」と選曲に至った背景を想像する人だってあるかもしれない。カサビアンと「傘なんていらん!」は韻を踏んでいるわけねと勘ぐる方もいるだろう(そう、その通りです。トレビアン!)。
カサビアンの"club foot"」を知らない読み手の場合にはおそらくこのようなことがおこる。すなわち、その後に続く文章を読み「なるほど、さっき出てきた『カサビアンの"club foot"』は、ここに書かれている内容みたいな意味合いで世間一般に理解される曲なのだな」と、後付けに「カサビアンの"club foot"」の意味が生まれ、あたかもの知悉がそこに発生するのだ。意味・文脈の後出しジャンケン。行き過ぎては戻り場を固定する、ある種まつり縫いのような状況がそこに生まれる。思えば受験生時代の経験則は「意味の分からない単語が出てきたときはひるまずに先を読み続けるのが得策」と教えてくれた。欠けたパズルのピースはその周辺が埋まれば自然と、その輪郭を明らかにする。



KASABIAN "club foot"
これを聴いて飲み会への予感が高まらないわけがない!


金曜日の夜が始まる。という文にしてもそうだ。気がつけば僕らは「金曜日の夜」に込められたニュアンスを行間を自身の教養であり経験と照らし合わせながら「感じ取って」しまう。実はそれは捏造であり空想なのに。
「金曜日の夜」を知らない場合も後出しで意味であり文脈が読み取られる。私は今咲きほこる28歳を歌い笑い生きているわけだが、同年代のみなさんの多くにおそらくは同じ経験があることと思う。Dreams Come Trueの"決戦は金曜日"。小学生のときに聞いたあの曲の歌詞に浮き沈むメロディーに高揚的で切ないコード進行、吉田美和がたたえる根拠の見えない満面の笑み、そして魚類のような口に、私は後出しジャンケンで「金曜日の夜」の意味を、少なくとも意味の輪郭であり影絵を知った。


だからそれが悪いとかそういうことではなくただ事実として、そこにそれがあるに決まっているという態度で、まるで収穫期のトリュフを追う豚のような国際空港の麻薬犬のようなあり方で、私たちは意味や文脈を嗅ぎつけほじくり返してしまう。実際のところ「カサビアンの"club foot"」は単なる事象であり事実だ。シャッフル機能が招いた確率論であり偶有性だ。その後に続いたであろう文章だってその日の私であり、Nであり奥さんでありUでありそれぞれの持ち寄ったコンディションによって無限の変化を見せるに違いなく、さらに言えば読み手の実存にあらゆる解釈は委ねられるわけだからそれはつまり無限の二乗、だから結局「カサビアンの"club foot"」に後付けで付与される意味であり文脈もそれとぴったり同じ数だけの「無限の二乗」に開かれている。極端な話、ああーつまり「カサビアンの"club foot"」でお前が言いたかったのは「ウォシュレットって『トイレットペーパー』という名の『へら』で延ばした乾燥ウンコにぬるま湯かけてふやかしてそっからもう一回『へら』で延ばしてるだけで、お尻のシワによりきめ細かくウンコ塗ってるに過ぎない」ってことなんだね!となっておかしくない。その解釈を否定することは神様にしかできない。


意味、文脈に関する一種の病。不可能と知りつつそこから自由であるとはどういうことなのか。ウォシュレットで尻はきれいになっているのか、あれは肛門周囲への左官作業ではないのか。昨日思いついたからその話もしておきたい、ただそれだけの理由で添えられたウォシュレットの話がまたあらたな意味・文脈を読んでしまうのだとしたら、そしてその解釈の過程自体が入れ子構造になって新たなウォュレットが呼び出され続けるのならば、無限につらなり召喚されるウォシュレットはいったい何を洗うのか。尻なのか意味なのかカサビアンなのか文脈なのか。


さっぱり先は見えてこない。20代は終わりに近づいている。