影を踏む

防衛機制ってのが何かっつうとそれは「そのまま貯め込むにはちょっと厳しい諸処のストレスを何とかしのぐための心的メカニズム」のことで、ひとたびそれが発揮されるとストレスは感情や行動のさまざまに形を変えて解消され、そこに適応が保たれる。合理化・同一視・退行・分離・肉豆腐・投射とかそんなやつ。今食べたいものが一つ混じってしまったが、名前くらいは聞いたことがあると思う。相手のことを苦手なのは自分なのに「いや、あいつは俺のことを避けてるから…」っていうのが投射で、すっぱいブドウは合理化、お酒のつまみに肉豆腐、そんな感じで。


たとえば、ことが上手く運ばないのをとにかく周りのせいにするタイプっているじゃない。両親に理解がないから就職できないとか、恋人が構ってくれなかったから浮気したとか、どの職場に言っても結局「上司に恵まれない」が口癖の人とか。ご飯の水加減を間違えたらきっと、このクソ炊飯器が!とかこんな駄米を作った農家が悪い!政治が悪い!時代が悪い!とか言っちゃいそうな、そして挙句に「やっぱ口が悪いくらいじゃないと人間面白くないよねぇ」みたいなことを言って全く悪びれないような。
何も僕はそういう人に問題があるとかそういうことを言いたいのではなくて(そういう人は苦手だけど)、そういう人達の性格ってきっと彼/彼女なりの「ストレスへの弱さ」「現実への適応能力の低さ」みたいなものを補って、何とか自身の精神/肉体的な健全さを保とうとする、涙ぐましい努力の表れなんだと思う。本当に参っているときって誰だって他の何かのせいにしたくなるもんな。心的な成熟が何らかの理由で得られなかった場合、世界は常にストレス因に満ちた状態で現前するのだろう。


一般にこういった防衛機制は「ストレス環境」で発揮されるということになっている。しかしここはひとつ拡大解釈をしてみたい。つまり、むき出しの現実世界は「言葉」で世の中を暮らす人間にとってかなりストレスフルな代物のはずで、全部が全部とは言わないまでも、およそ外界の刺激は人間に防衛機制を引き起こすんじゃないか。そういうポジションに立って考えてみたい。
先に例として見たのは極端に他責的なパーソナリティだった。で、これってどんな性格にもこの話は当てはまる話じゃなかろうか。やたらと人当たりのいいお姉さんも、凝り性なお兄ちゃんも、酒に頼るおっちゃんも、むすっとしてばかりのおばちゃんも、全部それは外界からの刺激・情報を受けて防衛的にそれらを処理し、結果としてその表出が生まれているという。それを僕らは「性格」「お人柄」と呼ぶ。


人がそういう人となりでいるには、それなりの「防衛と適応」なる因果があるんだろう。別段困ったところのない性格・キャラクターであっても、上の例と同じようなメカニズムの結果「防衛機制というフィルター」越しに表出されていると思うのだ。僕らは常に無限の刺激へさらされ続けていて、フル回転で稼働する防衛機制がそれを絶え間なく処理しては内的外的なダイナミクスに変え、僕らのムードや性格を形作る。
「この人はこういう人だよなあ」っていう印象は決してその人の本質を見ているわけでなく、適応の「結果」を見てわかった気になってるに過ぎないんだと思う。人間に本質なんてありゃしないよ、きっと。心的メカニズム(およびそれと相互に絡み合う数え切れない器質因)はただの回路に過ぎず、その最終産物が「その人」として現れるのみ。人柄や性格なんて<心>にとっては外界から身を守るただの道具であり、ファッションでありお洋服だ。


人と接するとき、僕らには「結果」としての雰囲気や性格しか見えない。そしてそれは影絵だ。その人が持って生まれた気質や能力、生活の中で身につけてきた成熟と未成熟と非成熟。これらに応じ作り上げられた複雑な防衛機制をフィルターにして、魂というか「その人の本質」という(おそらくはありもしない)虚光源に照らされゆらめく単なる影。
その人の性格や人柄に惹かれあるいは辟易するとき。それって実は「単なる影絵」を通してその人の核を、フィルターの向こう側にある色彩に満ちた魂そのものを自分勝手に幻想しでっち上げ解釈しているに過ぎない。おそらくは自分自身の防衛機制を実に都合良く駆使しながら*1。抜け出せない鎖、洞窟のイデア
目立つものから目につくというのは語義からして当たり前で、目立つ性格ってつまりは「その人だけの影絵」ということだ。僕はそういう影絵が好きだ。



文章が長くて疲れただろうから肉豆腐をどうぞ。


惚れるって何だろう。僕が好きになってきた女の子たちは、自分で言うのもなんだけど、いや自分が言わなきゃどうするって感じでもあるんだけど、とにかくかわいかった。無性にかわいかった。…てまうやないか!…惚れてまうやないか!!(座布団に顔をうずめて)
顔なんて好きになった後でいくらでも評価を変えられるので置いておくとして*2、やはり何に惹かれたのかといえば、きれいごととはいえ「人柄」なわけで。何も人格的に優れているから好きになったでなし、むしろ「なんか不細工だなあ」「うわあ頭悪いなあ」「俺にはまったくない考え方だよなあ」と思わせてくれる人が好きだった。そういうところこそがとびきり、キュートだった。


おすぎかピーコのどっちか、確かオカマの方がこんなニュアンスのことを言っていた。幸福には1種類しかないからつまらないけど、不幸には不幸の数だけ種類があるからすばらしい。元ネタはおそらく「幸福な家庭の顔はお互い似かよっているが、不幸な家庭の顔はどれもこれも違っている」だと思う。アンナ・カレーニナ。他だと内田樹も「完璧からこぼれ落ちるあり方こそが個性であり当人の魅力」的なことを書いていた。


思えば彼女たちのかがやきもそうだったのかもしれない。人柄、つまりその子だけにしかできない(ように私の目には映る)とびきり不格好な防衛の結果もたらされる、他に類を見ない(ように私の目には映る)いっとう奇妙な影絵。そのフォルムはどうにもうつくしく魅力的なものとして僕の網膜に写り、焼きつき、心を焦がした。できればその人にとっても特別な影でありたかった。いつだってあの娘が気にかかる、喜ばすためだけに生きている*3。…惚れてまうやないか!!(さっきちょっと唾くさくなった座布団に顔をうずめて)
誰から見ても歪んでいるというのではなく「僕の目を通したその時にだけ」ビザールなとっておきの影絵。影絵の奥にひそむ豊かな色彩に満ちたありもしない星空への予感。それはただの妄想には違いなくて、だからこそ何よりの幸せだよなあ。


無理とわかっていながら全力で自分を騙してあがいて、そんなの幻想って分かってんだけど大事なのはそんなことじゃなくて、もう理屈とか理論上不可能とかどうでもいいから、その人が表出する「性格」「人柄」という名の影絵。実在しないのは重々承知でそれでもその原形に触れてみたい、本当の色を知りたいと思う気持ち。惚れるってそういうことなのかしら。影を踏むと死ぬだとか、三歩下がって影を踏まないようにとか、そういうのって何気に象徴的だ。好きな人のお尻なめたい感じで影踏んでもいいじゃんか!って気もするけど、死んだら困るわ。まうやないか!!(もうびしょびしょの座布団で)
それにしても最近の日記は内容が薄いのに小難しい。反省…してない!

*1:都合の悪い防衛機制などないが。

*2:いや、僕の内的世界ではみんながみんなそれぞれ宇宙一等賞でかわいかったですよ。

*3:初恋の嵐『罪の意識』