女たち

この3月まで働いていた病院のすぐご近所に「たけのこ公園」という憩いの広場があって、昼下がりともなれば近所の子供連れや老年期のご夫婦があるいは犬などと共につどいたむろい、ウィークデイの昼間からアル中のホームレスが安いだけの酔い酒を飲み休日は夜勤明けのナースや医者たちがバーベキューを。つまりそこは実在のユートピアなんだぜ肉うますぎるぜということだ。俺が飲んでなきゃたけのこ公園じゃねえからな!飲み過ぎては肝臓をこじらせ病院に運び込まれるホームレスのおっちゃんが言ったそのセリフこそが公園のアイデンティティ、そして訪れた安息をほめ歌う謝肉のよろこびの全てだ。


だから何が言いたいのかって、この前の日曜日に病院の看護師さんたちとたけのこ公園でバーベキューをしたのがとにかく楽しかったぜビール美味すぎるぜっていう、そういうことだ。男も何人かいたが、私を含め見事なまでに公園の風景を汚してばかりいたからその存在はなかったことにする。だってあいつら全員チンチンはえてんだもん!全員アル中になればいい。
私は人を幸せにできる人が好きだ、他者の笑顔のために自らを動かせる人が好きだ、音楽家が飲み屋さんが掃除のおばちゃんが好きだ。私もいつかはそういう人の仲間に入りたいという意味でその感情は憧れと言い換えられる類のものでもある。だから、音楽家や飲み屋さんや掃除のおばちゃんと同じように、今回の企画を組んでくれた姐さん(ヤンキーっぽいからこの呼び名で!)が好きだし憧れてしまう。姐さんの作る飯はほっぺた満点で美味く、しかも疲れ果てイスに眠るというか座った瞬間に意識を失う当直の夜に、そっと毛布をかけてくれたりするからたまらない。きっとどこかの中学生からカツアゲしてきた毛布なのだと思う。端っこに「nichu」って書いてあったけど、あれはブランド名じゃなくて「二中」だったのな。姐さん、その節はありがとうございました。


芝生にぼんやりと座り込みビールをすすりながらバドミントンを見ていた。姐さんを含んだ同行の看護師さんたちの。たけのこ公園に咲いた呆れるような晴れ空、陽光を浴びた羽は実に不安定な軌道で宙を舞わされては、ぽとりと地面に落ち続ける。女たちは第一打をはなち、青の背景に踊るマチスの習作のごときその隊列はシャトルに踊らされ程なく乱れ、伸ばされたラケットの合間をすりぬけ羽は地面に落ちる。一切の損得から開放された響きでわき上がる含みもてらいもない、あたたかく反射する至福の笑い声。再度の第一打。永遠に続くかのような、これはおそらく男にだけ許された、幸福の風景。


いささかマッチョイズムなもの言いに眉をひそめた人も多いかもしれないが、しかしやはり「何かに興じ笑う女たち」を見ることの喜び、これは男の特権であってほしいと、慣れない「女たち」という言葉を使いながら私はおずおずと思う。こんなに幸せな光景は世の中にないよ。あるとすればハダカの酒井若菜くらいだよ。
飛び抜けた美人揃いというわけでなく(いやいや、みんながきれいだし魅力的なことは強調しておきますよ)、10代のまぶしさがバイアスとなっているわけでもなく、そういった気持ちも決して完全にゼロではないのだろうが性的な欲望どうこうの話をしているのでもない。その輪にはハダカの酒井若菜も混じっていない以前にひとりとしてハダカでない。それでもその景色は何よりも私のビールを美味しくしていた。そこにあったのは「女たち」でありその笑顔と歓声であり、だからこそ私の胸をしあわせの色に染め上げた。「女の人たち」でも「女の子たち」でも「女子たち」でも「女性たち」でもなく「女たち」だからこその、芯からあためる遠赤外線のような透過力があった。これが女性性なのかと思った。
音楽家、飲み屋さん、掃除のおばちゃん、女たち。缶ビール。


つまり昼から飲み過ぎ、日が変わるまで続いた2次会も飲み過ぎ、とにかく申し訳なかった。ごめんなさい。…俺が飲んでなきゃ…たけのこ公園じゃないから!