年の瀬

不必要に低い自己評価、それと裏返しの尊大な自己愛、八方美人めいた軽躁的ふるまいという基本的な性格傾向はもはや変わりようもないが、それにしても少しはマシな方向に動いているんじゃないかなあなんて思っている。健全な自己肯定がわずかながら芽生え始めているような。好きな人にまっすぐ好きと言ったり、周りのペースに乱されず自分のペースで作業や勉強を進めたり、そういう「当たり前」のことが少しだけできるようになってきた。29歳という年齢は遅すぎるかもしれない、けれど僕の中では確かな一歩。

周りの人達だよなと思う。僕の中で芽吹きつつある好ましい変化をうながしてくれたのも支えてくれたのも全部。人と交わるのは楽しい。自分が変わる、おそらく相手も変わる。人の和の中で暮らそうと思う。変化を続けようと思う。もっと柔軟でふところの広い自我を身につけたい。そしてゆくゆくは飲み屋のオヤジになりたい。芋焼酎をみんなの笑顔で割っては愉快に酔っぱらっていたい。周りの人が楽しそうにしているのが僕にとって何よりの喜び。
花見が好きだ。もう少し言うと花見客が好きだ。桜を見ながら思い思いに酔っぱらう人たち、あれ程しあわせな光景は他にないと思う。周りの人達には笑顔でいてほしい。そのために生きてみたいという目標。人生を終わらない花見にしたい。
来年は30歳。僕の中では「そろそろ成人式か」という感覚だ。「大人」になるのも悪くない、いや楽しそうだぞという気持ちでいる。

というわけで2009年もおしまい。直接に間接にお世話になった皆様、本当にありがとうございました。おかげさまで今年も無事に年が越せそうです。毎日がしあわせです。
良いお年を!

笑い飯による親(M-1)殺し

ちょっと今さら感が出てきたのは重々承知で、今年のM-1グランプリの感想を書く。漫才は日ごろほとんど見ず、この1年間は家にテレビすらない。けれどM-1だけは初回分から繰り返し見ている、という程度の人間の雑感。

一昨日のエントリーにも書いたけれど、M-1は「コンテスト」だ。つまり(明文化されてはいないものの)何らかの評価基準が存在していて、それをいかにみごとに消化したかで勝敗が決まる。ボケの難度・手数、ツッコミのバリエーション、声の張り方、4分間での緩急などさまざまな項目が用意されていて、基本的にはそれらを一つ満たすごとに「笑い」が高まるというシステム。今年の何がすごいって、この「M-1はコンテストである」という文脈を、つまり笑いの陰には様々な審査基準が存在するのだし審査員はただ笑っているのではなくそれらを逐一「チェック」しているのだ。ということを観客が見事なまでに熟知して視聴に臨んだことだろう。*1

個人的なエピソードなので客観性はまるでないがたとえば第2回大会でますだおかだが優勝したとき。不恰好ながら異形のかがやきを放つ笑い飯の2人が初めてM-1の決勝に姿を表したあの年に、フットボールアワーが死ぬほど面白かったあの年に、ますだおかだが優勝したことの意味が私には本当にわからなかった。審査員たちは頭がどうかしてるんじゃないのかと真剣に思った。けれども今ならわかる。
M-1は「その日一番面白い漫才をやったやつを決める場所」ではなくて「コンテスト」なのだ。何を面白いと思うかなんて人それぞれ違うに決まっていて、それでも一等賞を決めようとすることの大いなる矛盾が解決されなければ「コンテスト」は成り立たない。審査の公平性を担保することの重要性は誰しもが認めるところであり、だからこそ長い(上方)漫才の歴史の中で練り上げられ体系化されてきた有形無形の審査基準。それをいかに把握し、クリアしていくか。そういった観点からみたときの総合点1位はフットでも笑い飯でもなく、ますだおかだだったのだろう。それは「漫才グランプリ」というハードの中でM-1というソフトが開催されている以上、くつがえしようのない部分だ。今ならそうやって理解できる。

アンタッチャブルブラマヨチュートリアルが優勝をさらう光景、彼らが「審査基準」を誰しもが満足する形でに満たしながら世紀の大発明や発想の極限といった「プラス・アルファ」をそれぞれに発揮してはトロフィーを持ち帰る様は勇姿そのものだった。そのまばゆさの陰にひそみ気づきにくくなっていたけれど、M-1は一貫して「漫才グランプリ」だったのだ。しかも相当にぶれのない基準で確立された、まさに「ブランド」としてのグランプリ。

あの幸福な3年間が過ぎさった後に、サンドウィッチマンNON STYLEが優勝する中でその「コンテスト性」は徹底周知された。「◯◯は高い技術をもっている(M-1の審査基準を多く満たすことができる)」「△△、今年はM-1用にチューンナップしてきて本気だ」とテレビ局が直々に喧伝して回るほどに、かの大会はM-1職人たちの技術品評会になってしまった。面白さへの純朴な信仰は失われ「面白さは技術である」というおぞましさにも似た科学的思考が世を覆った。漫才グランプリの脱呪術化。
その流れの中で今年の優勝は無論パンクブーブーである。異論はない。ますだおかだ優勝に受けた言語化されない違和感に端を発し、オードリーとナイツが負けてNON STYLEが優勝したあの瞬間に頂点を極めた負の衝撃から既に私は学んでいる。M-1は「コンテスト」なのだ、笑いの質ではなくて技術の巧拙を評価する場所なのだと。

「最近のM-1は変わってしまった」という声を至る所で耳にする。事実私も去年まではそうくさすクチだったのだが、勘違いしてはいけない。変わってしまったのは私たち、動いているのは太陽ではなくて地球だ。
私はこれに気がつくのにまるまる9年を要したが、気づいてみれば何のことはない。M-1はその当初から一貫して揺るぎ無いブランド・イメージと信念に貫かれた「お笑い科挙」なのだ。年数を重ねるに連れて私たちの科挙リテラシーが多少深まったに過ぎない。あの試験、頭がよけりゃ受かるって聞いてたけどそうじゃなくってそれ用の問題集とかドリルでめっちゃ勉強しなきゃいけないんだって!論語おぼえてないと鼻で笑われんだって!そっかー、どうりでキレキレの奴よりも真面目に取り組むタイプのやつらが受かると思ってたよー。無知な私はようやくそこに気づくことができた。
パンクブーブーパンクブーブーとしての特別性から優勝を得たのではなく、その時一番見事な答案を書いたから、お笑い官僚としての優秀さを上手にアピールできたから優勝したのだろう。来年、次の試験が行われる頃にはパンクブーブーの書いた答案の内容なんてほとんどおぼえていないし、それで良い。大切なのは答案の中身ではなくて操作的にあてがわれる点数だ。オンリーワンではなくナンバーワンを決める戦い。先に名を挙げた3組などのように出題者の思惑を凌駕する奇跡の答案を提出して科挙にパスした人たちも中にはいるが、それはあくまで「嬉しい特例」であって毎年の試験にそれを期待してはいけない。だからパンクブーブーが優勝、それでいい。すなおに面白くって笑えたし、素人目にも圧倒的に「上手い」もんな。

さりとて笑い飯である。鳥人チンポジ。今回も壮絶にかましまくってくれた。鳥人では圧倒的な想像力で場を制圧*2、「100点満点+奇跡」を実現し場の頂点に超然と君臨したかと思えばひるがえって2本目でのくだらなさ。BGMはアカペラの野球場にスクールウォーズ。日ハム、晩飯が雑念になるくだりに明らかに使いすぎの30秒、そして極めつけにチンポジを気にし倒して終了。台無しも台無し、M-1の舞台どころか冴えない中学生の部室の一幕だ。本当に痛快だった。
単純な力学として、彼らとその他出演者「どっちが面白いのか」と聞かれて笑い飯を選ばない人はまずいないだろう。番組内だけで考えても漫才以外でのコメントの冴えを見れば歴然も歴然、パンクブーブーが「ありがとう」「精一杯やりました」と就活中の大学生的なお行儀コメントに終始(「ファイナル終了後のチンポジにだけは負けたくないです」が唯一のボケらしいボケ)した、するしかなかったのに対し8年目の場慣れもあろうが笑い飯は「いやー(自分の漫才を)自分で聞いてて面白かったです(哲夫)」「めっちゃ気にしたんでええ具合に(チンポジ)収まりました(西田)」とやりたい放題。

かくして最終審査のフタを開ければパンクブーブーが満場一致で優勝、繰り返しになるがそれは不思議なことでも何でもない。松本人志NON STYLEへの寸評で「いやあ、去年あと一歩のところでオードリーに負けたNON STYLEですけれど」と述べたことがある意味象徴するように、そのとき「一番オモシロかった奴」と「大会優勝者」は審査員側(少なくとも松ちゃんの中では)としても別概念なのだ。この「オードリーに負けたNON STYLE」のくだりで会場が沸きまくったことから、観客側としてもその程度の「裏事情」なんてM-1を見る上での共通了解であったことが分かる。

パンクブーブーの爆笑は「採点基準を丁寧に満たしていった結果」のものだった。おそらく、たかだか結成10年内の駆け出しコンビ達にとって「審査基準の不可視性・不透明性」はかなりのものだと思う。基準の一つ一つを見つけるだけでも大きな苦労が伴なうに違いないし、ようやっと探り当てたとしてそれらを実現に至らせるは道筋相当な困難が期待される。ある程度の部分を軽がる乗り越えてしまう天才肌もあろうが、並々ならぬ努力と忍耐でひとつずつステップアップを重ねるケースがほとんどに違いない。「コンテスト」は若手を成長させる装置として実によく機能する(漫才以外の場所でも幾らでも例を上げられる)。
このシステムのすごいところは、爆笑というゴールを一旦脇に置いても、直接に大爆笑を目指さなくても、きっちり達成項目を頭に入れそれらを愚直にでも実現していけば「爆笑」が得られるところだ。今年のパンクブーブーはまさにその典型例だったように思う。アンタッチャブル型の漫才をベースに採用し、点数を上げるために頑張ってドリルを解きまくって試験を受けたら最高点(=優勝)の「副産物」として爆笑がついてきたという。「副産物」が悪いわけじゃない。見てる側にしあわせを与えてくれる、まごうことなき栄誉の爆笑。これはすごいことだ。皮肉抜きで本当に思う、これはすごいことですよ。
チンポジにだけは負けたくない。パンクブーブーが発表直前に発したコメントはジョークの皮を着せた魂の叫び、あるいは祈りだ。血を吐く思いで修練を積みコンテスト用に肉体改造を重ね浮かぶ涙を偲んではボロボロの武道着でようやく目前に迫った「いただき」に、鳥のお面をかぶってチンポジ気にしながらゲラゲラ笑ってるやつが同じく到達しようとしていたら誰だって殺意を覚えるだろう。絶対負けたくないよ。これもまた本気で思う、がんばれパンクブーブー

「爆笑」を要素に還元していった結果得られた笑いの基本方程式、膨大な審査基準。1分間のボケの数、ツッコミの仕方、そういったチェック項目をうまく満たし統合することで再び近似値としての「爆笑」が合成される。ならば評価自体が難しくまたトレーニングの途上にある者たちがいきなり立ち向かうのは困難な「爆笑」という現象そのものではなくて「要素還元された各項目の達成度」を図れば良い。というのが(私がM-1を通じ学んだ)「漫才コンテスト」の思想だ。分解と統合、近似の美学、微分積分。近代の矜持、勤勉の誇り、プロテスタンティズムの精神。

今年のM-1グランプリ笑い飯のすごさはその「コンテストの思想」に真っ向からぶつかり、さらに優勝をかっさらう寸前まで歩を進めたところだ(もちろん「科挙」対応に向けた労苦も惜しみなく払ってきた上で)。一度として要素に分解されたことのない、手付かずで始原の「爆笑」を、彼らは身を削って創り上げようとしていた。自分たちにしか作れない「ええ土」製の泥人形(それは土と肋骨から産まれたアダムとイヴにも例えられるだろう)を何とか形にしようとして泥んこでもがいていた。光あれ!彼らは光だった。誰よりも輝いていた。*3
優勝がどうでも良かったのではないだろう。2人は本気で優勝したいと思いながら、思うが故にチンポジを気にしたに違いなく「だってその方が普通の漫才より面白いでしょ?」と堂々と審査員に観客に他の出演者たちに突きつけてきた。まずはタキシードを来てきましょうそうしたら面白いことをやって構いません、という場で「面白いタキシード」を来てのこのこやってくるみたいなものだ。
上に確認してきた「コンテスト」の思想、つまり分解と統合の後に得られる「近似値としての爆笑」。それをまっすぐに狙う他の出演者たち、脱呪術化の果てにはじめから「近似値」を期待して集まった聴衆とは発想の水準がまるで違う。周囲の予想を全て裏切って、一本目の「鳥人」にウンコを塗りたくりながらチンポジにもっていくというその行為自体が、まるで一本の完璧な漫才のようだった。ボケは笑い飯の2人、ツッコミはM-1を見ていた全員だ。

「近似値としての爆笑」に勝つためには「より厳密に近似された爆笑」を狙うしかないように見える。特に近年のブランドイメージの徹底的な構築に成功したM-1においては他に抜け道はなく、少なくとも9回の大会に一度として例外措置はとられなかった。
なので。はっきり言って諦めていた。今後ますます「ウマさ」が重視され技術の品評会になっていくM-1は「近似の細密さ大会」として確立されていくのだろう。なればこそますます、あの脳みそが湯立つような感動や興奮はなりをひそめていくに違いない。でも思うんだ。俺はさあ、爆笑したいんだよ!
「始原の爆笑」は優勝しない、だから無理なチャレンジなんて誰もしない。そんな諦念を受け入れる寸前まで気持ちが揺れていたその矢先、笑い飯は「こいつらならやってくれるんじゃないか」とあまりに見事な夢を見させてくれた。コンテスト用に微分されていない、喜びに満ちたあの「始原の爆笑」。分解と再合成を経る以前にそこにあったはずの幻を追い求め、ついに<鳥人>というアイコンが結実。見果てぬ夢の予感を誰しもに感じさせるところにまで笑い飯はやってきた。こんな感動があるだろうか。

どうやら来年も笑い飯M-1に出場するようだ。コンテストの思想なんて歯牙にもかけないあり方で、ぐうの音もでないもぎたての大爆笑をかっさらい、M-1の思想そのものをぶっつぶした上で本気の一等賞をとってほしい。M-1から出てきたコンビが最後の年にM-1の「コンテスト思想」を打ち砕いて生身の大爆笑で優勝したらどれだけ痛快で幸福だろうか。悪意に満ちた親殺し。その現場は全員お腹が痛くて涙目。ワッツアコメディ!
以上、とにかく笑い飯に感動したM-1 2009だった。

*1:お笑いに聡い方々には周知の事実かもしれませんが、この「考えてみれば当たり前過ぎる事実」をおそらく私を含めた多くの「お笑いビギナー」たちは数年前まで言語化できていなかったと思います。ビギナー側の視点で書いているので、この先を読むときも「何をわかりきったことを」「ささいな発見を大げさに、こちつバカなんじゃないか」なんて思わずに心をひろくお読みいただければ幸いです。

*2:鳥人」という発想だけでも天才過ぎるのに「シューベルトの魔王か」っていう常識はずれのツッコミや「チキン南蛮」のベタベタさ加減をありにする腕力、「トリ真一→手羽真一」というバカ流れを大アリにもっていく構成力など、全てのパーツの破壊力が神がかっていた。

*3:ナイツ、南海、ハライチなんかには同じ思想を感じた。今までの登場者だと千鳥やPoison Girl Bandなんかにも目立ってその傾向があると思う。大好きだ。

M-1 2009

20分しか時間がないが、今日を逃したら熱がさめるので今この20分で書けるだけ書く。


漫才コンテストなんだからパンクブーブー優勝はやむなし。フィギュアスケートと一緒で採点基準を一つ一つ丁寧に満たしていけば必然的に優勝が決まる。必要なボケの数・難度、ツッコミのバリエーション、会話のテンポなどといった「採点基準」が明文化されていない点でフィギュアとは異なるものの、コンテストの基本姿勢は「チェックリストをより完全なかたちで満たしたものが優勝」であることはゆるがぬ事実だろう。それが一番上手だったのがパンクブーブー。もちろん誰にでもできることじゃない。才能に恵まれた2人が採点基準に対する研究に継ぐ研究を重ね、血を吐くくらいに練習し倒し、時の運までを見方につけてようやくたどり着ける一等賞。採点員はお笑いコンテストの思想・機微を知り尽くした人たちだから、一等賞の判断がパンクブーブーから動くことはありえない。


2人の漫才は面白かった。すなおに面白かったし声をあげて笑った。げっらげら笑った。けれどそれは、どうにも心に響かなかった。
カラオケの採点と似ているのかもしれない。音程が1回ずれたらマイナス何点、ビブラートが何秒入ればプラス何点、最小音と最大音の落差がどれだけあればプラス何点、といった基準を満たしていけば100点になるあれ。
パンクブーブーからは「優勝してやるぜ(=採点基準を網羅してやるぜ)」が前景に立ち、「面白いことをやるぜ」が影を潜めている印象を受けた。結果として完成した漫才はそれは見事でデリケートなもので大爆笑をかっさらっていったけれど、それはコンテストで優勝しようとお笑いチェックリストを一つ一つつぶしていった結果の、副産物としての大爆笑だった。最初から会場を大爆笑させる、俺らが一番面白いと思っていることをやってやる。そういう類の思想から生まれた大爆笑ではなかったと思う。繰り返すけれど、それは悪いことじゃない。コンテストなんだから優勝するために必要なことを過剰なくらいに完璧にこなしてみせた2人はすごい。超笑ったし、感動的だった。


そこで鳥人でありチンポジである。笑い飯。僕は鳥人で比喩でも上手いこと言ったでもなくまぎれもない鳥肌を立て、最後のチンポジに心底感動した。
今回決勝に出演した9組の中で、唯一彼らだけが「俺らが一番面白いと思っていることで会場中を爆発させてやるぜ」という強烈な光をはなっていた。これはM-1というコンテストだから満たすべき基準があるのは分かっているが、本気で面白いことやったら審査基準なんて余裕でパスだろう!と考えていたのかもしれない。いや、そういう「コンテスト用」という発想自体が彼らにあるのかどうかすら怪しい。民俗館、ハッピーバースデイ、宇宙戦争、そしてチンポジ。あいつら気持ち的にはタキシードで臨むべき神聖なコンテストにハダカ蝶ネクタイでのこのこやって来ているみたいなもんだ。


面白いってなんだろう。笑えるってなんだろう。M-1は分裂した場所だ。つまり「コンテスト」でありながら「数値化できない面白さ」を期待される場所として、見事に引き裂かれている。
僕にとって面白いっていうことは「価値の鎖から逃れ、可能な限り痛快なやり方で自由に振る舞う」ことだ。既存の価値・道徳の体系から意識的に逃避し遊ぶことだ。だからそもそも面白さをコンテストになんてできるわけがないと思う。それでもやはりどこかで「一番」がほしいというわがまま。M-1を引き裂いているのは僕だ。
笑い飯だけがぶっちぎりで面白いことだけを考えながらコンテストを征服する、というやり方でその分裂を受け止めている。それは「コンテストを笑い飛ばす」ことで「コンテストを制圧する」という離れ業であり、親殺しのにも似た一種の「悪意」と呼べるのかもしれない。だから僕は笑い飯が大好きだ。優勝してもしなくてもつねに輝き続ける孤高のきら星。彼らが来年「お笑いコンテスト」という矛盾を堂々と生き、真正面から攻め崩し、そして「お笑いコンテスト」を殺してくれることを祈っている。


20分たったので終了。推敲ゼロだぜ!

グラビア・倫敦・日本の湿気

月刊酒井若菜を買ったら彼女のオリジナリティあふれるかわいさやらしさありがたさうれしさにもうメロメロですよ。という内容のことを前回書いた。その続きで「グラビア写真集を買う」ことについて。グラビア写真集を買うのって何だか気恥ずかしくて、もっと言うなら「後ろめたい」ような。中高生の時分に芽生え始めた健全な性欲が種々のエロ・アメニティ購入に自身を駆り立てたあの頃、レジの前で無性にドキドキしたあの感覚。その根源には「この感情って恥ずかしくっていけないものなんじゃないのか…」という、罪の意識と言ったら大げさかもしれないが何かこう「後ろめたさ」があったように思う。直接にエロいものを買う場合はもう、そういったたぐいの逡巡は訪れなくなった。だがしかし「グラビア」の中にはあの頃の甘酸っぱい背徳感がいつまでも保存されている。後ろめたさのタイムカプセル。


この前行ってきたロンドン旅行の写真を挟みながら。着いた夜はハリーポッターみたいな曇り月の空でした。

雑誌のグラビアで見る分には磯山さやかとか岩佐真悠子とか*1たまらない、もう白味噌じたてのお雑煮くらいに大好きだ。それでも写真集購入という段になるとついためらってしまう。だって恥ずかしいんだもん。「このグラビアの人が好き」という気持ちは、性欲という(各人の嗜癖こそあれど)基本的にはユニバーサルなものと異なり、圧倒的な「プライベート」だからだと思う。
おそらくは「慣れ」と「開き直り」で大部分が解消される問題だろう。恥ずかしさなんて反復する刺激暴露で簡単に摩耗する。けれど困ったことにそれでは意味がない。グラビアを見て「ああ、たまらないなあ!」と感じるとき、そこで味わっているのは「後ろめたさ」(対外的な「恥ずかしさ」はこれと同根)の快感でもあるからだ。あれこれと写真集やDVDを買いまくっていては後ろめたさや恥ずかしさがすり減り、グラビア写真が「洋服や水着ありのエロ本」になってしまう。ダメダメ!せっかくの心地よい後ろめたさがなくなるだなんて、もったいないお化けが出るよまったく。
たまに買ってはそのたびに、本棚の後ろめたさにゾクゾクしながら。そういうスタンスで買う写真集はページをめくるのも実にこそばゆく、それがまたくすぐったい愉悦を生む。そんなしあわせ*2


一番雰囲気の良かったパブ。チャーチル・アームというお店です。

休暇を利用してロンドンに行ってきた。ひたすらにパブでビールを補給しながら予定も立てずにぶらぶら気ままなほろ酔い一人観光。面白い町だった。
強く感じたのは「この国は(過去の)栄光に堂々と胸をはっているなあ」ということ。過去に大英帝国がなしとげた偉業の数々が美術品として博物史として、金銀財宝としてまばゆいばかりに陳列されていた。1ミリのぶれようもなく確立されきったナショナル・アイデンティティが「ロンドン」というでっかいミュージアムに展示されているような。中でも印象に残ったのはTower of Londonに展示されていた王冠。女王がかぶるあれ。近くで見ると本当にビッカビカなのよ。イギリスの栄華がこれでもかと飾り込まれたとんでもない代物だった。かげりなんてかけらもない。
悪趣味だ。こんなものを「イギリス(王室)の栄光」として堂々と開示するなんて。正直なところそう思った。これが作られるためには世界規模での圧倒的な規模の略奪が、貧困者からの強烈な搾取が行われたはずだ。名前も声も残さぬ無数の人々(しかもその大多数は植民地の他国民!)が、この王冠の陰で人生を苦しみ、死んでいったことを考えるとこの王冠はあるいは原爆に負けず劣らずの「負の遺産」だろう*3

まあその「イギリスの栄光」がたとえば海洋術や天文学を整備したことや近代産業の原型を作り上げたこと、今を生きる私がその「巨人の肩」に腰掛け歴史上他に類を見ない快適な環境でHot Chipを聞きながらぬくぬくとブログを書けている状況を鑑みれば、お前ら歴史の中でひどいことばっかしてきてマジ最低だな!とナイーブに言うわけにもいかず、かの国はやはり巨大で偉大なわけだ。
それでも思う。そういった偉業に宿る「陰」なんてまるでないことにしてビッカビカの王冠には陰一つありませんのよ!と誇らしげに胸を張る姿勢は、これは多分に好みの問題なのだろうが、どこかいびつではないだろうか。申し訳なさと後ろめたさで毎日窒息しそうになりながらそれでも、溺れそうなのはあっしのせいなんでがすよゲヘヘ…と手もみを続ける。そんな日本的な卑屈メンタリティに学んでくれるところが多少はあっても良いのではないだろうか。
卑屈。申し訳なさ。こればっかりは自身がある。申し訳ないという気持ちなしに暮らすことなんて私には不可能だ。人を好きになったときにもまず「俺なんかが好きとか言って、ちょっと申し訳ないよな…」だから。


Tower of Bridge。朝早く活動しすぎて一番乗りになりました。


テムズ川にはカモメ(?)が飛んでいました。ネプチューンマンのマスクは見あたらなかったな。

そんなこんなでイギリス人*4は実に不幸だ。彼らは月刊酒井若菜をめくる時のむずがゆい快楽を理解できない。何かを主張するとき好きになるときに「この気持ちってすごく恥ずかしいものなんじゃないのかな」という逡巡が、「陰」への配慮がナショナル・アイデンティティとして欠け落ちているからだ。グラビア写真をめくりながら身もだえする、あのときの気恥ずかしいうねりを感じられないなんて、これ以上の不幸はないよ。うんわかってる、本当はいっぱいあるよ!
イギリスに限らず西洋のグラビアって直截的に性欲を刺激するものが多く、今考えてきた「気恥ずかしさ」にフィーチャーしたものをあまり見かけない気がするのだが、実際はどうなのだろう。

たった数日の滞在で知ったようなことを書いたが、それにしてもロンドン旅行すばらしい経験になった。忘れていた自分の思考・嗜好の日本っぽさ、湿っぽさに改めて気づくことができた。
その不細工さゆえに酒井若菜に相好を崩し、グラビア写真集に後ろめたくてくすぐったい愉楽を覚え、人を好きになったときにまずは何だか申し訳ない気持ちになる。
なんて湿気が多くて卑屈な人間性だろうか、実に愛らしい。アイムジャパニーズ、これぞ日本的メンタリティ!ではなくて単なる自分の趣味か。私としてはかなり「日本的」な部分が大きいと思うのだがみなさんいかがですか。


イギリスっぽい写真でラスト!

*1:この2人よりも最近の人を知りません…

*2:ちょっと話はずれるけれど、スピッツに『おっぱい』という曲があってサビの歌詞が実に秀逸、「君のおっぱいは世界いち〜」とひたすら連呼するのだが、歌うとこれが実に後ろめたくてこそばゆい。これも実に幸せです。

*3:死者の数で行為のひどさが数量比較できるって言ってるんじゃないよ!

*4:ここでは、イギリスの栄華を臆面なくまっすぐに信じる人、という意味です。イギリス国籍の人全員ではありません。

合衆国

買った。生まれてこの方手を出したことのなかったアレを買ったのよ。グラビア写真集ってやつ。男でも買ったことのある人って実はそんなにいないんじゃないかと思う。

月刊酒井若菜 (SHINCHO MOOK 123)

月刊酒井若菜 (SHINCHO MOOK 123)

月刊酒井若菜。これはすごい、神様からのおくりもの。上記リンクに表紙画像が載らないのが残念でならない。中をのぞく私の頬はゆるみっぱなし、何だか落ち着かなくて椅子から立ちあがってはまた座る、そんな自分がまたカワイイ。
月刊酒井若菜。タイトルからして嬉しさにあふれ、もはや「気品」レベルだと思う。月刊酒井若菜。「マグナ・カルタ」くらいの気高さはゆうにある。

私はそれこそデビューの頃から酒井若菜大好き人間で、とにかく彼女の顔が好きなんだけれど、加えて美人過ぎないところがよい。やや目立つほほの膨らみ、ときに細まる目、やわらかな輪郭、全体にただよう栃木っぽさ。ああ!
常々同じことばかり言っているけれど、ただ端正でキレイな顔立ちだけでは「ウッハー、かわいいなあ!」とならないわけで、何かこう人間くさいところというか不格好なところがあって初めて「ウッハー!」に必要な「自分勝手なオリジナル主観」が投影できるのだ。本当にかわいらしい人に求められるのは「その人にだけ与えられた、絶妙な不細工さ加減」なんだな。酒井若菜の塩梅たるや完璧の一言、もちろん整った顔立ちながら特にあの、表情を崩したときの何とも言えない絶対音感みたいな不細工さ、その熱すぎず冷たすぎずの湯加減はこの10年間私のハートをかき鳴らし続けてきた。

彼女は最大公約数的な「絶対美人」ではないと思う(けなしているのでは全くない)。もっと分かりやすい美人さんはテレビや舞台その他芸能の世界にはたくさんいるだろう。酒井若菜フリークであることを告げると周りから「えー、何で?」的な反応をされることもしばしばだ。

先日いわゆる合コン(なのかあれは?まあいいや)の席で、隣にいたA氏が「じゃあ好きな芸能人のタイプとか言って行こうよ!」とおっしゃって、何が楽しいのかさっぱりわからんが、場の男女は共にわいわい言っている。俺はねえ、戸田恵梨香!とか言っちゃって。
そういうことじゃねえだろうと。その軽はずみな戸田恵梨香!からするに、戸田恵梨香さんが死ぬほ好き好きとかそういうことではなく、「今をときめく若くてきれいな子が好き」ってだけだろう。
そんな「とにかく女は容姿!」めいた発言に話を合わせている女子たちもすごい。空想上の動物のたとえになってしまうが、アウン・サン・マザー・スーチー・テレサくらいに心が広い。

ところがそんなスーチーさん級の天女たちですら、酒井若菜を好きだって言うと「うーん…」となる。おかしいだろう。その価値観で困るのあなた方だろう。
私でしたらオーダーメイドであなただけの不細工ポイントを見つけて差し上げられます」ということを是非アピールしたい!誰がみても美人な人を美人を理由に好きになるよりも、自分だけが美人だと思う美人を好きになる方が余程たのしいのになあ。

たまに出会う酒井若菜ファンに私は確かな共感を抱く。ああきっとこの人は、僕とは全然違った、あるいは共通した視点で酒井若菜のことを好きなんだろうな、自分なりの「好き」を大事にするタイプなんだろうな。それはある意味では「連帯感」とも呼べる感情なのかもしれない。それぞれが独自の裁量で何かを愛し、そこに見出す価値は違えど「そういう風に好きになるのって気持ちよいし幸せじゃない」という理念で連帯する空間。ユナイテッドステイツオブ酒井若菜。私たちは、ユナイテッドステイツオブ酒井若菜です。

みちこ

今日から夏休みなので、ロンドンに行ってきます。先日ニューヨークに行った際に、大都会観光したって東京と変わんないでしょーなんて思っていたらあまりの面白さに面食らい、じゃあ次も大都会で!なんて。

なんせ相手は太陽の沈まぬ国、大英帝国。極東だからってなめられちゃいけない。犬の生活してる人たちなんて威嚇し返してやらないと。ワンワン!ん?うるせえ、日本じゃバウバウじゃなくてワンワンなんだよ!

僕たち大英帝国、どうせ日本なんて大丸ピーコックでしょ?ゲラゲラ!みたいな鼻持ちならないブリティッシュジョークをかまさせちゃいけないと愛国心も高まる私。
なのでロンドン行きが決まったその日に行ってやりましたよスーツをあつらえに伊勢丹へ。ギンガムチェックなど何するものぞ、伊勢丹でキメてやるぜ!

ということで成田空港に伊勢丹チェックのスーツを来ているのがいたら、それはCOWCOWか私です。みんな私をイギリス人だと思っているのか、遠慮して近寄って来ません。
替えの衣装はマシュー南のストライプスーツ。行ってきまーす。

Perfume 直角二等辺三角形TOUR ファイナル

やれフジロックがどうだ大学時代はオーケストラサークルに入っていただ、あんなもん全部「ふり」だから。しちめんどくさいカモフラージュ。うんperfume「も」聞くよ〜っていうための。ぜーんぜん興味ないからな、perfumeの音楽以外なんて。なんとなく「も」の方がかっこいいからそうしてるだけの話で。うんperfumeも聞くよ〜。ほらかっこいいじゃない。
あ〜ちゃんは顔がでかすぎて顔ぬりかべだとか、かしゆか水木しげるぬらりひょんに似ているとか*1、そんな心にもないことを書いたこともあった。けれどそれらだって全て「ふり」に過ぎず、キリシタンが拳を握りしめながら口ではイエスを冒涜するのと一緒で心の中では血を流しつつ泣く泣くね。そういうことってあるじゃん、素直になれなさが逆説的に好きを語る一幕っていうのかな…あるんだよ!世間様がそうしろって言うから俺だって泣きながら『BUDOUKaaaaaaaaaaN!!!!!』のDVD踏んでんだよ!踏んでねえよ!

前置きが長くなったが、というわけで行ってきた。知人のあふれ出るご厚意からチケットを譲っていただき直角二等辺三角形TOUR。初めてのperfumeライブはしかも追加公演ファイナルだったのだ。ありがとう平成のマザー・テレサ
何度か足を運んだことのある会場だった。けれどもうオーラっていうのかな、口をあんぐり開けて待ち構える横浜アリーナにたどり着いたとき、そこには既に、身震いするようなムードがあふれ出ていた。
友人のAKと待ち合わせ会場へ。仕事の都合でやむなく遅刻だったので会場内の移動はガラガラの楽勝だ。物販に寄りつつホールへのドアを開けると、そこには「湿気」と呼んだ方がふさわしいようなめくるめく熱気。生き物の体温。

超満員の中なんとか席を探し出しステージ上に目をやるとおかしい。2人しかいない。あ〜ちゃんが見あたらない。
はっそうか、あ〜ちゃんは顔ぬりかべだからステージ上を探すんじゃなくてステージそのものに擬態しているんだ!と今いちど目を凝らしても一向に気配なし。…おかしいな、ひょっとして体調壊したのかな…昨日今日全然ニュース見てないけど、ついにフライデーされたのかな…。
とあらぬ不安がよぎりもしたけれど、冷静になれば何のことはない。ここ、あ〜ちゃんの体内なのね。口をあんぐり開けたあ〜ちゃんの中に入ったらそこは湿気に満ちていたっていう。さすがperfumeあ〜ちゃんアリーナとは人類のサイズを超越したにくい演出!
まずいよなあ、こんなネタバレしたら次から行く人の楽しみがなくなっちゃうよなあ…ってファイナルだから大丈夫か、てへへ。(ちなみに、ここから先は全然ネタバレないよ!)

実際の彼女はむしろ小柄に感じサイズからしてキュートで、かつ10年後も人前でお喋りしてそうな磯野貴理子的なタレント性も小気味よかった。のっちは持ち前のユニセックス感もありつつとびっきり肉感的であるという嬉しすぎるアンビバレンツがオヤジ心へ実に染み、私の頬はゆるみっぱなし。そしてぶさかわいい業界に舞い降りた天女かしゆかが走り、跳ね、笑うたびに私の心臓はピョン吉(@ど根性ガエル)的にドッキンドッキン脈打ち前列の兄ちゃんの後頭部をこづき続けた。
他に言葉はない。いやあ幸せだった。

perfumeを好きな気持ちに一番似ているのは「『彼女』をかわいいと思う気持ち」だ。通常のアイドルが要求する文法とは異なり、つまり瑕疵のない「偶像」に定点から憧れるのではなく、現実にいる生身の人間をどうやって好きになるのか、そのために自分はどう変容していくのかという動的体験こそが何より問われる世界。自分の見方次第で目の前の女の子はいくらでもかわいくなるしその逆もしかり。無限の可能性へ開かれた喜びと不断の自己変容を迫られる困難に挟まれた世界。それは板挟みゆえの喜びに満ちた。
perfumeの3人に「飛び抜けたぶっちぎり」がいないのはそう言った意味での必然なんだろう。それぞれが「理想の姿=完璧なアイドル像」から三者三様の魅力的なやり方で欠け落ちている。だからこそ愛らしい。天を仰いで理想に近づこうとするのではなくて、人間の世界で同じ目の高さに代え難いよろこびを見出す楽しさ。それが3人のステージには凝縮されていた。

今日のコンサートにあったのは「神様仏様を拝む」というよりは「お地蔵様やお墓にお供えものをする」的な、ちょっとした生活密着感だった。定められた作法を神の前で披露するのではなく居合わせた群衆はそれぞれに自分の村のあるいは自分だけの踊りを踊る。
3人のかわいらしさは「射す後光、どうやっても届かないまぶしさ」ではなくて「おめかしした彼女の晴れがましさ」であって、あのときステージ上のたった3人は観客一人一人にとっての「私だけのあの子」だった。長いMCコーナーは、perfumeが神様仏様じゃないことの証明で、なぜなら神様は望むほどにいつだって無言だからだ。

典型的な「アイドル」あるいはヘタな「アーティスト」にありがちな垂直方向の力学ではなく、どこまでも水平方向に広がる人間くさい営みがあったように思う。教会でステンドグラスの逆光に射され神に祈るのではなくお墓に水をやり花を添えながら、あいつはダメな奴だったよなあ、なのにホントにくめなくてさあ。ゲラゲラ。そんなたぐいの。
涙と笑いの墓参り。人様にチケットを譲っていただいておきながら、感想が「perfumeコンサートは墓参り」なのもどうかと思うが、今日アリーナに集まったみんなはいい墓参りしたんじゃないでしょうか。最高だったぜ!