電車男

電車男で感動するっていうことが、犬が上手に芸をするのを見て喜ぶのと同じこと、少なくとも同じ成分を含んでいるんだ、ってことに昨今の電車男ブームに乗っている多くの人は、気づいていないのでしょうか。「気づく」とかは大げさだとしても、電車男がブームになるという現実そのものに違和感を感じたりしないのでしょうか。
あらあら、好いたの惚れたのなんててんでダメだと思ってた「おたく」クンもがんばれば人並みに恋ができるじゃない。すごいわぁ〜。みたいな感じがそっくり。お高い所から電車男くんがエルメスさんと何とか恋愛関係になっていく様子を見て「そうそう、あんよが上手」って思ってるの。全員が全員とは言わないけど、そういう人(もちろん優越感の自覚はゼロ)多いと思う。テレビ報道(特に、いわゆる「芸能部」的なところで)からも、ぷんぷんそういうにおいを感じる。
無神経な人々と無神経なメディアが作り挙げた今の電車男ブームはホント気持ち悪い。


自分よりも完全に能力の劣るものが意外にもそれなりのパフォーマンスを見せる様子。それは確かに快感をもたらす。そこには意外な驚きがある上に、もちろん自分の優位性は完全に保証されているわけで、優越感を再確認することもできる。
子供が上手にお遊戯するのを見てかわいいって言ったり、少年合唱団を見て感動するのも構造は一緒だと思う。
しかも、そういう優越感を包むオブラートとして「感動」という錦の御旗が用意されているからたちが悪くって、犬の芸も子供のお遊戯も少年合唱団も、そして電車男も、全部「感動的」ってことになってる。その話に心を動かされることがそれだけで美しいことであるとされている。


こういった種類の感動はとても醜い。醜いは言い過ぎだとして、少なくとも、感動の背景に潜む「ゆるぎない優劣の構造」を個人と社会が共謀して隠蔽している点で、極めて品性に欠ける。電車男(とエルメスさん)の物語を最低のやり方で食い潰している。「感動・愛情」という名の自己欺瞞に満ちた、最もたちの悪い差別の構造だ。
そんなんだったら、「道ばたの乞食に金をやるけど、これは俺の方が偉いから俺より劣る奴に恵んでやったぜがっはっは」っていう方が(もちろんモラルや倫理観の問題を多く孕むけど)、よっぽど素直で健全な差別だと思う。


あ、映画、ドラマ、舞台とか、電車男本人さん(=中野独人さん)やエルメスさんのことを悪く言っているわけではないし、「電車男」にファン全ての人を悪く言っているわけではないです。僕自身も「電車男」ネットで読んだけど、めちゃめちゃ面白かったです。いやみでも言い訳でもなんでもなく。
ファンを自称する人の一部や、メディアを通じて形成される集団意識の中に、差別的な優越感と感動のはき違えが起きているんじゃないかって話です。