記憶の糸

ちょっと時間がある日は頭を使わずに新書をパパーッと読むに限る、ということで石原千秋「国語教科書の思想(ISBN:448006270X)」読んだ。本郷三丁目、2件目のドトール。いつもの石原節で面白かったんだけど、その中に「小学校の教科書における父の不在」みたいなことが書いてあった。<父>なるもの、すなわち開拓者・侵略者としての<人工/近代/都市>。<母>なるもの、すなわち守り・育むものとしての<自然/脱(前?)近代/田舎>。この両者のヘゲモニーの中前者はものすごく分が悪くて、教科書作成者は近代という装置を、都市という思想を忌み嫌っているのではないか、という読み。


で、ここでいきなり話は変わる。
よーぞーが下にコメントくれたけど、彼は駒場時代の同クラ。今よりさらにお酒の飲み方をしらない僕は彼に散々迷惑をかけて、感謝しても仕切れないし謝っても謝りきれないんだけど、とにかく1・2年生を同じクラスで過ごしていました。


閑話休題
1年生の頃に駒場野公園で同クラむちゃくちゃ飲んで、騒いで(近所に住んでる人って超うるさいんだろうな、ごめんなさい)、気が付いたらみんなで服を脱いでた飲み会ってのがあった。駒場野、地獄の裸飲み。道ばたで寝てて警察に連れてこられる人とかいて、みんな次の日身に覚えのないあざとかあって、その時のことを上の石原千秋の本を読んでたら急に思い出した。
いっきなりフラッシュバックした。
何で買って言うとその凄惨でアホな飲み会やった次の日に小森陽一っていう「これ、コロニアリズムですから」が口癖の先生の「日本語テクスト分析」とかいう科目の試験があったからだと思う。
あらかじめ試験内容は予告されてて「あなたが「三四郎」を読んで感じたことを試験時間90分内で書きなさい」っていうめちゃアバウトな試験、持ち込み自由。滅茶苦茶飲んでふらふらしながら好きな授業だったから単位はほしくて(じゃあ飲むな!ってのはありえない)とりあえず試験にノープランで臨む。そこで吐きそうになりながらでっちあげたのは、「三四郎」には<父><母><子>からなる「完全な」家族が現れない。三四郎は一人暮らしだしミネコの家には両親が不在だしその他にも云々、みたいな感じで、それが漱石の内面とうんたらかんたら。とかいう恥ずかしい内容。その、<家族>がどうこうって話が今日読んでた新書の内容とリンクして、パパッと駒場時代のことを思い出したんだと思う。
しかも蓋を開けたらあらびっくり、何だか知らないけど「優」をもらって駒場っていいとこだなあ、なんて思ったのは4年前の今頃。懐かしい話だ。そして今、僕は「三四郎」の舞台だった本郷に一人暮らしてる。


一人の本郷は時に寂しかったりして、あの時よりも少しは三四郎の意味とかっが幅広くわかるようになった気がする。三四郎の時代はおろか、4年前にだって1軒もなかったドトールが、今や本郷の駅には2軒もある。そのドトール三四郎のことを、同クラのことを、1年夏学期の試験のことを、その前日の愚にもつかない輝ける大切な飲み会のことを思い出してる。みんなで全裸ではなくても何だか服を脱いでた4年前。あの頃つけてなかったblogってやつを僕はつけてて、そこに同クラだった友達から裸についての書き込みがあって、その後何の気なしに読み始めた1冊の新書。その「同クラで裸→<家族>についての問題」っていうイメージの流れってのが「同クラ飲み→小森の試験」と同じで、それが引き金になって「脱いだ脱がなかったの話→小難しい<家族>の話」っていう時系列の流れつながりで駒場野公園で飲んだことやら「三四郎」やら思い出して、しつこいけどそんな僕は今本郷に住んでかねやす近くのドトールで本を読んでいる、と。


いろんな思い出とか考えが頭の中でぐちゃぐちゃに繋がって、なんだかすごく面白かった。そんな1日だった。