目的地

学校の先輩に誘われて、プーシキンの後で急遽お芝居を見に行く。駒場アゴラ劇場、チェルフィッチュの「目的地」。久々の観劇にヒデキ感激。ローラ!最後まで見て納得、というかこんなやり方でお芝居として成立するんだーと感心した。演劇とは言葉と身体である、って定義してしまえばストーリー進行と演技って切り離せるんだー。


スクリーンに映し出された面白くも何ともないストーリー(?)に照らされて、ただ反復される「だらだら」した発話と身振り。演者がヘンテコな身振りを繰り返しながら意味がありそうでなさそうなセリフを繰り返す。
そのセリフと動作の反復・循環だけでも十分に「舞台」「舞踏」にはなるんだけど、ステージ上のスクリーンには何でか、あってもなくてもまるでどうでもいいような「ストーリー」が流されていた。舞台上の出来事が「演劇」になるためには、どんなにつまらなくても(いかに冷徹で零度であっても)構わないから推進力としての「ストーリー」が必要ということなんだろうか。演劇であろうとする以上、筋書きの「進行」への信仰は捨てられないのか。「物語」を紡ぐことはリニアな時間のみに赦された(循環時間には達成し得ない)特権なのだろうか。
あと、横浜の港北っていう舞台設定がよかった。ニュータウン独特の、郊外、ドラマのない世界、アイデンティティの危機、統合失調症というイメージの連鎖が全体に通底していて、お芝居に奥行きが出ているように感じた。共通了解として寄るべきドラマを現実から見失ってしまって、大きな物語にも信頼がおけなくてっていう人たちが暮らしてる世界。なーんにも起きてないようにみえるけど確実にうねってる世界。そんな状況を描くには「スクリーンに演者の意思とは関係なく進行する(一切盛り上がりや盛り下がりのない)ストーリー」と「それとはお構いなしに(とか言いつつスクリーンをチラチラ見ながら)生きる/演じられる人々」っていう作りが必要だったのかもしれない。
ただ、そういう現実の風景を何気なく描いていたとしても、演劇の新しいあり方を示したとしても、その先に何らかの希望を指し示せないんなら別にそんなフォーマットでやんなくてもいいのになー、って思ってしまった。まあそんなの好き嫌いの問題だし、そもそも希望示す必要なんてどこにもないけど。


あと、過剰なドラマ性や演技性を忌避/批判して採用したお芝居のスタイルなんだけど、それを徹底しようとしすぎて逆に一つの「過剰なあり方」に陥ってしまっているような気もした。まあ何かを批判するときに自己再起的にその落とし穴にはまるってのはメタレベルの視座を用意しようとする程に避けられないことだとは思う。でもそう言うときに必要なのは「いや、自分の提示した批判の枠に自分自身がひっかかっちゃってるのは重々承知だけど、それでも敢えてやるんだぜ!」みたいな姿勢じゃないだろうか。(今日初めてみたくせにそんなこと言うのもあれだけど)今日見た「目的地」はスタイルの確立に捕らわれすぎて自己言及の姿勢が足りない気がした。
「目的地」っていうタイトルは、目的なんて無くただただ繰り返される演者の動作とセリフからもわかる通り、<目的>というものに対する一種の皮肉の意味が込められているんだと思う。ただ、その更なる皮肉は、結局「目的地」っていうお芝居自体がある種の<目的>を抱えてしまっており(何度でも言うけど、それは避けられないことだから、そのこと自体に罪はない)、そのことに対する「それでもやるんだ」っていう意思が希薄である所で表現として弱くなっていたってこと なんじゃないか。


とか言いながら、全体として、すっごい刺激的で面白かった。ただやっぱり、こういうの見るのはたまにでいいや。
しっかりしたストーリー進行があって、その中であれやこれやのドラマが提示されて、いかなる状況でも笑いを忘れない、(そしてできれば浪花節的に感動して終わる)やつが僕は好きなんだと改めて痛感した。今日のお芝居はものすごくリアルだしリアリティもあって、アイデアに満ちていて、とにかくすごい劇だったと思うんだけど、その先に何にも(希望どころか絶望すらも)見えてこなかった(それが良い悪いじゃなくて)から苦手だなあ。
とか言いながら、やっぱ色々考えさせられたし今後が気になるし次もう一回見に行きたいな。結局好きだったんですかね。