2日目は知らない街でたくさんの人が暮らしてるんだなーと思う

起床。てっきりサクセスがいつものサクセスっぷりでサクセス早起きして残りの二人を叩き起こしてくれるんだろうと思ってたらさあ!まったくもう!結構いっぱい寝ちゃったね、サクセスさん。まあそんなサクセスに起こされるまで起きる気配すらなかった二人も二人だけど。


コンビニでおにぎりとerotica(韓国では、18歳じゃなくて19歳以上が購入可能!)を買ってみた。さらに本屋でSLAM DUNKハングルバージョンを購入。ラスト巻を買ったんだけど考えてみたら山王戦のラスト、セリフほとんど無いじゃん!電車の中で普通に読んだらしっかり涙ぐんでしまった。あのヤマオー戦は神がかってる!言葉いらないもん。


さて電車に揺られ水原(スウォン)へ。200年前の遷都予定地(未遂)。城壁を歩いて、昼から焼き肉食べた。韓国の焼きニックは本当にすばらしいね。もちろんチャミスルも飲んだし。
その後はソウルに戻って、ソウルのスーパーマーケットをぶらついた後でソウルタワーへ。どう考えても街の景観を損ねている、ソウルの上げ底シンボルタワー。あれ、かっこいいの?ホントに?とか否定的なこと言いながらも、眺めは最高だったな。夜飯は鳥鍋!


まあ大体そんな所だけど、とにかく「街に人が暮らしてる」ってことを強く感じた日だった。地下鉄の人たち、売店のおばちゃん、ブランドバックのお金持ち、手をつなぐカップル、うつむく浮浪者。全員が毎日食べて寝て泣いて笑って。吸って吐いて。そんな風に毎日を毎日すごしているんだっていう感覚。日本にいたって同じ感覚になれるはずだと思うんだけど、なぜだかソウル、ソウルでそれを強く感じたのだ。


ソウルタワーに行く途中、山というか丘というか、そんな所から見下ろしたソウルの街並み。でかくてきらびやかなビルもあれば、こきたなくてしゃれっ気なんてどこにもない民家もあって、それが混じり合って一つのソウルの街並みになってるんだと思ったら、陳腐な感慨なのは百も承知だけど、やっぱり鳥肌が立った。ソウルを生きる人たちの固有の毎日が、人生が、集積すると、なぜだか「街並み」になる。のだろうか。街並みをいくら鳥瞰した所でそこに暮らす人たちの泣き笑いはまるで見えてこない。見えてこないに決まってるのに、なぜか「街並み」がそういう「生」の一粒一粒を驚くほどに反映している気がして、なんだろ、その、あれだ、街並みを眺めてるだけで自然に「人が暮らしてる」って感覚、それに包まれたわけで、とにかく、それってなんてすごいことなんだろう!


全然知らない人たちのが、それぞれのやり方で、自分で選んだ/選ばなかった街で暮らしている。僕が東京でそうやって生きているようにソウルで、あるいは他の土地で、繰り返す、しかし繰り返すことの決してない24時をおくっている。そのことを教えてくれたのは、屋台のオモニの顔でも、どの国でもやはりとろけるようにかわいらしい小さな子供達の声でもなくて、そういった直接的な「生きてる」ファクターからは随分と遠い、半端な高さからの半端な街の眺めだったっていうのがものすごく不思議だ。なぜ街を眺める事が人を考えることになんだろう、いや、そんなの考えるまでもなく当たり前な気もするぞだって街を作っていくのだってそこに暮らす人々の意思だから。でもその「人々の意思」ってのは一人一人の気持ちのインテグラルではなくてもっと化け物じみてでっかい何ものかな気がして、やっぱそうすると各人の生活や思いをいくら集めたところで「街並み」には繋がらない。途中に明らかに断絶というか、連続じゃ無いところがある。逆に、どれだけ街並みを微分したところでやっぱ、個々人の生活や願いや祈り、それらを街並みに読み取ることは不可能だと思う。そもそも現実の、圧倒的な情報量が互いに錯綜し絡まり合った風景を前にして、たとえメタファーとしてだとしても「微分」なんてできるわけない。モデル化もできないし、したくない。したくないし、したくっても僕の能力じゃできない。あー言葉にできん、ならん。


そんなことを思いながら床につく。もう4回目になる舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」を読みながら。何と素敵な小説なんだろうか。趣味悪いと言われようが何だろうが、本当にこの本好きだ。きれいで真摯で計算づくで恥ずかしがり屋すぎるから全部言葉で書いちゃうような小説。(久しぶりに読んだらやっぱ面白かったから、今日の文章似せてみた。←全然似せられてない!)
そしてベッド脇にはチャミスル!この酒ほんと美味い!


てな感じの2日目でした。
次の日は恥ずかしいよー!