クレオパトラ

6日に箱根に行ったときに「クレオパトラのワイン」という話を聞いた。クレオパトラがあの時飲んだあのワイン、そのグラスの中に含まれていた水分子は今僕たちが飲んでるコップ1杯の水の中に期待値的には必ず含まれているんだぞっていう話。
参考URL:http://www.chem.s.u-tokyo.ac.jp/~struct/invitation/wonderworld.html


2000年とちょっとっていうのが地球の水分子循環に十分な時間なのかどうかは知らないけど、この考え方ってとてもすてきだ。
小さい頃世界で一番美味しいと思っていたマクドナルドのコカ・コーラ。あの中に含まれていた水分子が、今の僕が世界で一番美味しいと思って飲んでいるビールの中に含まれているかもしれないなんて、ちょっとドキドキしてしまう。逆に、あの時のコカコーラの水分が、ひょっとしたら1粒くらいはまだ僕の身体の中に残っているのかもしれない。
僕が世の中で一番嫌いな人の体内に水分として含まれていた水分子山盛りの焼酎を、ごくごく飲んだことだってあるんだろう。…死にたい!


もうちょっと幸福な想像をしてみる。
何も話は水じゃなくても、いやさ液体じゃなくてもよくって、大好きなあの子が冬の寒い日に、手をかじかませながら吐いた白い息が今まさに僕の所に届いているのかもしれない。彼女が悲しみと絶望の中ついたため息の、ほんの一部分でも、巡り巡って僕の所にやってくるのならば、同じ悲しみをシェアできる喜びに僕は舞い上がる。たとえ同じ場所にいなくても、あの子の寝息の一つ一つが僕にとって世界を変える程の意味を持つ/持ちうるっていう事実が、夜の空をより一層輝かせる。


大好きなミュージシャンがあの時のライブで演奏した歌が、今や世界を包んでいるのかもしれない。あの子が僕を笑わせるためについたたわいのない嘘が、気まぐれな現実となっているのかもしれない。そのことに一番驚いているのは他ならぬ彼女なのかもしれない。
これから僕が見る夢が、時を経て僕の愛する息子/娘の元に届くのかもしれない。そのとき発火したニューロンの何らかの物質成分が、夢のパーツとして息子/娘の夢の国を彩るのかもしれない。


僕らは大きな循環の中にいる。意味も価値もないような、大きな大きな流れの中に生まれてから死ぬまでずっといる。上で何度となく使ってきた「かもしれない」のうねりの中で、僕らは笑ったり怒ったり憎んだりする。パンを焼き、ジャムを塗り、コーヒーをいれる。iPodに入れる曲をあれこれ悩んだりする。そして、愛する人々に囲まれて、パンにジャム塗りすぎだとか選ぶ曲の趣味が悪いとか、大体コーヒーがぬるいんだよとか(猫舌なんだからしょうがないじゃん!)、そんな文句ばっかり言い合いながら、互いに笑っている幸せ。ああ、今日もコーヒーがうまいな。
そんな馬鹿げたシーンを夢想してみる。


僕が酔っぱらいまくったあの日御茶ノ水橋の上からアーチを描いたあの立ちションも、場末の居酒屋のトイレに吐きまくったローゲーも、ここを読んでいる人の元に何らかの形で届くであろうことを考えると、悪いことは出来ないなあと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だけどまあ、これだけ歯の浮くようなすてきなことを書き連ねてきたんだから多少のことは多めに見てよ、と思う。地球を汚くしてごめん、みんな!