仏道

苦行なのです。学部の同級生であるA木、W田と午前2時までダーツにいそしんだ上でラーメンを食べ帰宅するのも、その後うちに乗り込んできたサークルの後輩T山と午前7時まで飲むのも、痕跡は十分すぎるほどあるのに吐いた記憶が全くないのも、全ては苦行なのです。決して好きでやっているのではありません。信心を貫くための、やむにやまれぬ犠牲なのです。「おつとめ」と言い換えることもできるかもしれません。
たとえば今日の朝、寝起きの後輩(task君)の前に私と上記T山でチンチンを2本(キンタマを計4個)つきつけたのも、単に酔った勢いでズボンを脱ぎたかったわけではなく、「おつとめ」です。誰が好きこのんで1年生の前でフルチンになるというのでしょうか!一体誰が!…信心のあまり少々語気が荒くなってしまいましたが、私の気持ちは十分に伝わったことかと存じます。本当にtask君のトラウマにならないことを願うばかりです。


酒を仰ぎ、尊ぶ、言わば仏の道。仏の道は茨の道。常に身を清め、身体と精神を律し、酒に臨みます。酒に溺れているのではなく「おつとめ」を果たしているだけなのです。気持ちの上では全員坊主頭です。精神的「禿頭」なのです。
道ばたで酔いつぶれて寝ている人、トイレで思わず嘔吐をしている人をみかけることはしばしばですが、顔をしかめてはいけません。彼/彼女らは厳しい修行にその身を捧げた、極めて信心深い仏徒なのです。特に「寝ゲロ」をなさっている方などは「涅槃」の境地に至っておられる、極めて尊い方々です。当宗派において彼らはミスター・ニルヴァーナと呼ばれ、万感の尊敬・畏怖の念をもって迎えられます。
また、いわゆる「オール」という行為についてですが、あれはただ夜通し遊んでいるわけではありません。「出家」をしているのです。「出家」信者は、終電で家路につく「在家」信徒に比して極めて篤い信心をもった者であるといえるでしょう。


勉強もしないで酒ばかり飲んで!当宗派の活動について「良識派」の方々からそのようなお叱りを頂戴することもしばしばです。しかし、この批判ははたして適当なものでしょうか。
勉強があるから、明日テストだから。それは、勉強という「安心感」いわばぬるま湯につかっているだけなのではないでしょうか。社会的な安定・心の平安を得るために自身の内面とは異なる作業にいそしむ。そのような精神のありようとは実は、あまりに単純な快楽原則に従うばかりで、すなわち俗世のアカにまみれているのと同じことなのです。勉強するなど何よりも容易いことですが、まずは「おつとめ」を果たさなくてはなりません。我々仏徒からすれば「良識派」とはその実、世俗で欲望のままに享楽をむさぼっている人々ということになります。もちろん、そのような生き方を否定するつもりは坊主なだけに毛頭ありませんが。なーんちゃって。


隙あらばこのような「うまいこと」を言おうとするのも我々酒仏門に帰依する者の特徴です。しかし、これも決してオヤジギャグなどではありません、これは「念仏」です。当然ながら、信心が深いほど「念仏」を唱える頻度が高いと言えます。私などはまだまだ門を叩いたばかりの若輩者ですが、今後も念仏を唱え続け、少しでも高徳の先達に近づけるよう修行に励んで参りたいと思います。