同じ音・違う意味

今日のサンデージャポンでのこと。ジローラモが第3ボタンまで開け放ちながら「カッコよくなるには、自分を磨いて自分に自信を持たないとネ」という内容のことを述べていた。努力に裏打ちされた自信こそが一番カッコいい、さすがチョイ悪代表ジローラモさん良いことをおっしゃる。努力を重ね自分に自信をもっている人は、抗いがたく魅力的だ。
それが審査員であったかフィギュア界の偉い人であったか忘れたのだけれど、安藤美姫が今期シリーズ初戦に出場した折、彼女の演技を「安藤美姫は自分のことを本当に美しいと思っていない」と評す人がいたと記憶している(ショート・プログラムで2位だった時)。簡潔ながらに言い得て妙、確かに安藤美姫の笑顔はあの時すごく「無理してる」感があったように思う。


ジローラモ、審査員。両者に共通する発想として「努力して技術や知識を身につける→自分への自信を持つことができる→周りの人を魅了するカッコよさ/美しさを発揮できる」という成長ストーリーが浮かんでくる。この成長物語は否定のしようがなく正しいと自分でも思うのだけれど、何かがどこかでひっかかる。と思ってサンジャポの後あれこれと考えていた。


自信と確信に満ちた、「文句のつけようがなく美しい」という「美しさ」は、その美しさにおいてすごく一面的なのではないだろうか。そこに見る「美しさ」とは、それ自身として自立した(見る側のパラメータに依存しない)美しさを欲望する世界の話だ。観察ではなく観測と言えば良いのかな、何が良くて何がダメで、という操作的なマニュアルを適切に適用できさえすれば「見る側」が誰であっても同一の得点に辿り着くような、そんな世界での高評価を「美しさ」と呼んでいるだけな気がする。


もちろん、チョイ悪もフィギュアも全人的な評価を下すものではなく、決められたルールの中で高得点を狙う「競技」なのだからそれで良い。ただそこで僕が苦手なのは、そういった「努力に端を発する成功ストーリー」が全人的な人格陶冶、真善美への接近へと、容易に短絡されてしまう点だ。


チョイ悪の土俵で高得点をとることを「カッコいい」と呼ぶけれど、それは数あるカッコいいの一形態に過ぎないわけだし、フィギュアで高得点をとることを「美しい」と呼ぶけれどそれもやはり数ある美しいの一形態だろう(ドブネズミみたいな「美しさ」だってある!)。例えば、発言した当人の真意を知ることはできないが、先に挙げたかの審査員氏の言葉は「安藤美姫は自分のことを美しいと思っていないから「美しく」ない(フィギュアの世界における高得点を得られない)」と捉えるべきなのであって、「安藤美姫は自分のことを美しいと思っていないから美しくない」であってはならない。あの時の安藤美姫の、自信なさ気で固い笑顔を「美しさ」として評価する人はいなくても、そこに宿る何ものかを美しさとして評価する人は一定数いたのではないだろうか(まあ僕なんだけれど)。


考えがちゃんとまとまってないが、努力をした先に得られる結果(高得点)という意味での「カッコいい/美しい」と、観察者の主体性や価値観すらも飲み込んだその先に生み出されるカッコいい/美しいは似ているようでやはり違うものだし、後者は前者に比べてはるかに語義が広い(後者は前者の大部分を内包する)。美しいと「美しい」の違い、美しいは「美しい」を含むけれど「美しい」は美しいを包まないという包含関係(包含っていうか、大小の円の重なる・重ならないの関係)がごっちゃになって、みんながみんなして誤用している所がすごく気持ち悪いのかなと思った。ジローラモにまつわるカッコいいと「カッコいい」の違いも同様だ。


僕もそういった類の誤用を数え切れなくらいしまくっているのだと思うと何だか恐い。反省しよう。反省に遅すぎることはないからな。そしてたったこれだけの事を考えるのに(しかも筋も通ってないのに!)余裕で3時間かかっているという事実。心から頭と要領悪すぎ…。そして皮膚科と形成外科の試験がマズいな。反省してももう遅いかもしれない。