好きなのよ

いくら時流にうとくなったとはいえ中学生時代はベスト20をあらかた揃えたテープを毎月作成していた私だ。SMAPELTは入れないけれど小室ファミリーはテープに入れる、そのあたりに一回転した、ニキビのにおいに満ちたこだわりを発揮していた/しているつもりになっていた私だ。時はながれ多くの20代中盤のご多分にもれずヒットチャートをほとんどさらわなくなった、流行(はやり)の唄も歌えなくてダサイはずのこの私。だがしかしさくらの時節もとうの昔に過ぎ去ったというのに、今になって頭の中でYUIの「CHE.R.RY」がヘヴィーローテーション。今年の曲を時差アリアリで聞くというややこしさ。恋しちゃったんだ。


CHE.R.RY

CHE.R.RY


毎年恒例「さくら」の歌って基本的には「散るさくら」がモチーフになるわけでそこに毎日のヒキコモゴモを重ねるパターンが多いけれど「CHE.R.RY」は「つぼむさくら」「咲くさくら」を主題とする点でおどろきのアクロバットでありこの春一番の発明品であるように思う。桜の咲きそうな/咲いている風景、新年度新学期という船出、そして恋の始まり。概念としての「ティーン」にだけ許された特権的な予感を逆手にとって、これら全てをとある19歳の少女(曲が出たときは20歳だけれど)の下に重ね合わせてしまった、そしてその一連を自分自身でやりとげてしまったというマジック。
相手の嘘を嘘と知りつつ信じたくなる気持ちを恋と呼ぶのなら、さくらを前にしてその散り際を思うよりも、つぼんださくらをみつめ咲いたさくらはいつまでも知らないと信じ続ける気持ちこそが恋だ。なぜならさくらは間違いなく、散る。
恋しちゃったんだたぶん気付いてないでしょう?ときに心情に声量がついていかないところも、歌詞に残るちょっとした幼さも背伸びも*1、全部が逆説的にそれら「はじまり」のイメージを、つぼむ19歳の「これから」を彩っている。


桜は散るもの。それが自然のさだめであり美。体の隅々にまでそういった概念の染み込んでしまった私(私たち?)にとって、つぼみ、咲く、そして散らない(散らしたくない、お願いだから散ってほしくない)さくらのイメージはそれだけで新鮮で、それこそが胸を打つのではないだろうか。10代の現実は上の世代(というほど上でもないけれど…)の夢物語。「ティーン」にまつわる周辺領域、そのあいまいな境界線上で過渡期に揺れる人だから「胸がキュンとせまくなる」なんて、心の動きを「キュン」という感覚的に過ぎる擬態語で堂々と表現できるのかもしれない。
キュンでみんな同じように伝わるでしょ?という、同じ気持ちを皆がくぐりぬけてきているでしょ?という信頼を歌手から寄せられて、聞き手は思い思いに舞い上がる。未だ胸のせまくなるキモチをくぐり抜けてない人は「恋の始まりはキュンとするんだ」「きっとこれがキュンなんだ」と夢想にひたる。


大人と子供に、青春とポスト青春に明確な線引きなんてないけれど、19という数字に意味があるとしたらそれはティーンの終わりであると同時に何かのはじまりで、その素数は曖昧な境界線のふれ幅をぼんやりと表していて。この歌はそんなマージナルを奇跡のバランスで歌うことができている。時間がとまっている。歌詞を読むと分かるけれど「サクラの咲いていた日の夜」でこの歌の世界は時計を止めていて、そこにつぼみとしての恋がある。その先にあるのはネバーランド、永遠に咲き続けるさくらだ。いい歌だ。

*1:蛇足だけれど携帯電話のコマーシャルソングとしても、完璧すぎる。この歌詞聞いたら絵文字入りでメール打ちたくなるもの。