不知

親知らずを抜いた。水平に生えることで自身より一つ番号の若い臼歯を真横方向にぐいぐい圧迫するというあばれはっちゃくぶりを発揮、27年目の秋にして永い眠りからさめた親知らずはここ数日の左下顎にお茶目な疼痛を走らせていた。何をしていてもしていなくてもとにかく痛い。周囲の歯茎もはれあがった。カテーテルを見学しようと甲状腺にエコーをあてようとそこに鈍痛がある。ご飯は左側でもぐもぐできないし、左下の歯茎がまさにはれものなのであるからして歯みがきにも相当なおっかなびっくりを余儀なくされる。「親知らず」などというほんのりキャッチーな名前などもはやこいつには生ぬるく、いっそ「親の心子知らず」と呼んで徹底的に糾弾してやりたい。血でつながった大切な子だからこそ、敢えて突き放すことで深い愛情を示したい。だから今日、私はばっさりと抜いてやったのだ。診断は埋没臼歯、さらば左下の親知らずよ。


これで私に残されたのは3つの「親の心子知らず」のみとなった。4つの何かが何かを結界しているという設定はテレビゲームや少年漫画そしてSF趣味の冒険譚でしばしば見受けられるものであり、その封印をめぐって意味としての「ガラフ」が死んだりなんだりするというパターンも一つの定番であるわけだが、こと私に残された子知らずたちに限ってそのようなわけはないと言い切る根拠が一体どこにあるというのだろうか。すなわち私に残された3つの封印が解かれ結界が消失したときに、解放されたなにものかによって私の身に重大な変化が生じる可能性は極めて高いのではなかろうか。しかもその過程でガラフは死ぬ。ぜったい死ぬ。嗚呼ガラフ


埋没した一難を取り去ったと思えばはやくも顔をのぞかせる不安の萌芽。世界の危機、ガラフの安否。今まさに私の口腔内へ風雲急が告げられようとしている。