浄化計画

からだ巡茶をよく飲む。ペットボトル(410ml)のサイズと形が好きで(持ちやすく飲みきりやすい)つい買ってしまう。味も嫌いじゃない。
*1
しかもここに来てコマーシャルがすごいことになっている。そう、「いっぱい出たぁ〜」だ。「いっぱい出たぁ〜」っておいおい、それはいくら何でもやり過ぎじゃん!?ヒロスエほんとそれでいいの?エロ過ぎない?さすがにこれはひどい…って嘘嘘!このコマーシャル大好き!ありがとう、ヒロスエ。…テレビで放映されるたび、思うがまま踊らされる毎日だ。*2
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さて、話題は「いっぱい出たぁ〜」からがらりと変わるけれど、上を読めばわかる通り僕は広末涼子のことを「意味」の上で未だに「ヒロスエ」でとらえているようで、これは正直かなりの衝撃だった。散々いっぱい出たぁ〜と書いてきた(←書きたいだけ!)が、それが今日の本題だ。
宣伝広告のナレーションや表記が「広末涼子」で展開されているにも関わらず、決して熱心な広末涼子ファンではなかった僕が彼女のことを「ヒロスエ」と呼んでいる。90年代後半、彼女がまさに時代を代表するスーパーアイドルであった頃、Maji で恋する5秒前だった頃。あの当時「ヒロスエ」という片仮名4字に込められていた僕たち世代の万感の思いが、広末涼子を「広末涼子」にすることを許さない。


小泉今日子を「キョンキョン」、中山美穂を「ミポリン」と呼ぶ人たちに対し「お前ら何そんな昔の感覚にすがってんだよ、アホかっつうの。時代は流れるじゃん、今や小泉今日子であり中山美穂じゃん」と思っていた自分が、気が付けば彼らと同じ行為を繰り返している。「ヒロスエ」と「広末」が同じ音なせいで問題が見えにくくなっていたけれどまさに同じ穴のムジナ、キョンキョンヒロスエヒロスエミポリンだ。俺がお前でお前がヒロスエだ。混乱のあまり自分でも何が言いたいのか全く意味がわからないが、まさか自分がアイドルを過去の呼称で、その当時の「意味」のままに呼んでしまうことになるとは。その予感は前からあったものの、現実にその日が訪れてみると何だかちょっぴりショック…。


20年後も30年先も広末涼子は僕の中で(僕たちの年代の中で)「ヒロスエ」であり続けるのかもしれない。50年後、老人用オムツのコマーシャルで「おしっこいっぱい出たぁ〜」と言っている「ヒロスエ」も悪くないな、と少しだけ思う。

*1:これでコマーシャルが変に気取ってなかったら最高だと思う。悪い意味で「いかにも女性が好みそうな」と言えばいいだろうか、ヘルシー指向とカジュアルな雰囲気に清潔感を振りかけデオドラント仕上げにすれば一丁上がり!という狙いが透けて見えすぎて、何だか気持ちが悪い。人間が抱く欲望の本質的なかっこ悪さや醜さを「なかったこと」あるいは「無味無臭」にしてしまっている。それが方法論として「あり」なのは分かるけど、人間の体温を感じないこのコマーシャルからは逆説的に「こうすれば売れるぞー」という広告制作者の欲望がむき出しで感じられてしまって、どうしても好きになれない。「どうせこのくらいやっておけばホイホイ商品を買うんでしょ?消費者たちは」とバカにされている気になる。とは思うものの「いっぱい出たぁ〜」は好きなわけだから、自分に筋が通っていないことこの上ない…。

*2:ダイドウさんも似たようなこと書いてたな