日テレ24時間テレビ

あぎゃー、寝る前にテレビちらっとつけたら4chで24時間やってんじゃん!
僕の知る限りの日本のテレビ番組で、最も醜くて野蛮で軽薄で品のない番組。いや、そういった日本語たちに失礼なくらいの、最低最悪のクソ番組。ファック、寝てる場合じゃねえ!


障害者、悲惨な境遇にある人、つらい過去を持つ人、そんな「自分よりも弱い人々」のチャレンジや物語を見せ物にすることで形作られる、欺瞞に満ちた感動の数々。それらを彩り感動を増幅するために消費される、本来の意味を徹底的に漂白された数え切れない歌たち。まさに地獄絵図。


それだけでも我慢ならないのに、「募金額」という形でその作られた感動すらも数値化し、消費していく番組の構造がこれまた酷い。感動は金になる。よくそんなコンセプトを考えついたと、発案者には正直畏敬の念すら覚える、素直にすごいと思う。
僕の鈍くてひねくれた琴線には全く響かないけど、この番組を見て心から感動を覚えて、優しい気持ちになる人はたくさんいるんだと思う。毎年の恒例番組になってんだし、現実に驚くような(正直僕には理解できない規模の)金銭が琴線の代償として寄せられている。


話は一旦とある大学の医学部に移るんだけど、そこでは実験に使った動物を「キログラム」って単位で捨てる。他の大学がどうかは分からないけど。どんな実験に使われた、とか、どんな人に扱われた、とか、そういう個別のストーリーを全て切り取って、「実験動物○○キログラム」で彼ら/彼女らは捨てられる。
こういうことは倫理的に良くない!とかそういうナイーブな非難をしたいわけじゃなくて、事実としてそういうことがある。


で、話は再びファッキン日テレ絶賛ウンコ垂れ流し営業中、悪夢の24時間テレビの募金システム。
これって、視聴者個別の感動を募金の金額で十把一絡げにしてるわけで、とにかく気持ち悪い。個々人が「感動」に至った流れを、ストーリーを全部はぎ取って単なる数値にしてしまう。単なる数値にすることで、この番組の持つ欺瞞の構造はきれいさっぱり。個別の経緯が見えなくなって、そこに残るのはただ漠然として輪郭のない、無味無臭の「感動の痕跡」だけだ。
人の善意の物語すらも軽々と消費しすり減らし、募金額という形をとりながら「主体の無い感動」はさらに増加していく。その「感動」は視聴者を成果益々「感動」させて自己増殖を無限に繰り返し、呆れるほどに肥大していく。一度駆動したら「サライ」が流れるまで決して止まらないシステム。


現実に募金は社会の役に立ってるんだから、別にそれでいいじゃんか。メカニズムがどうこうとかどうでもいいじゃんか、ってか「お金を集める」っていう観点からすれば極めてよくできた仕組みじゃんか。そういう気持ちも確かに僕の中にある。
でもやっぱ、その仕組みを「感動」っていう人の心の深い部分を利用して作り上げているのがどうしても我慢できない。世の中には、「どんなに実際的な効果が見込まれたとしても絶対に使用すべきではないもの(60年前にその被害にあわれた方のことを思うと、今この文脈でその単語を用いることは恐ろしくて畏れ多くてどうしてもできないのだけれど、察してください)」が存在する。本当に「絶対に使用すべきではない」のかは議論があると思うけど、取り敢えず僕はそう考える。人の生命に対する尊厳をまるでもたない兵器。
そのアナロジーとして比較できるレベルの話でないのは重々承知だが、人の精神に、魂に対する尊厳をかけらも持たないこの番組は、やはり決してその存在を許されるべきではないと思う。
これは、「感動するための感動」を延々と生産し続ける悪魔の番組だ。


冷静さを全く欠いているので話が無駄に大きくなっているし、そもそもここに書いていることは理屈の前に結論ありき、適当な連想ゲームで非難を重ねているだけだ。それはわかっているけど、それでもとにかくとにかくとにかく書きたい。この番組の、何と許し難い暴力行為であることか!


今これを書きながら名前を思い出すのもイヤなこの番組を見ているんだけど、見ていて本当に吐き気がしてきた。毎年、何とかこの番組を好きになろうと見てみるんだけど、やっぱりこれはダメだ。世の中には色んな価値観があるんだし「僕の性には合わない」っていうのがmodestな表現なのかもしれないけど、そんなの知ったことか、とにかくこの番組は絶対的に下品で、無惨なほどの悪意に満ちている。文字通りに反吐が出そうだ。テレビを見ながら吐き気がするとは!って正直自分に驚いてる。そんな自分が面白いからもう少し、眠りに落ちるまでテレビは消さないでおこう。


それでは今度こそお休みなさい。