人間関係者各位

家に帰る道すがら、御茶ノ水から本郷へと自転車を走らせながらつらつら考えた、っていうかいつも考えていることなんだけど、人間関係って才能なんじゃなかろうか。
体を動かす才能に長けた人がオリンピックに出て頭を使う才能に長けた人が大きな発見をしたり大金持ちになったりする。それと同じように人間関係の才能に長けた人ってのがいる。記録とかインパクトファクターとか金額とか、そういった客観的な数値化をされない分野だからわかりにくいけど、誰からも愛されたりすごくモテたり。周囲に愛情を振りまくことができたり、人の気持ちを常におもんばかれたり。そして、なかとみのかまたり。


学業やスポーツでは、そして音楽や美術などの芸術方面では「どんなに努力しても人並みにはなれない」そんな人がいることを仕方ないとする風潮というかコンセンサスがある。わんぱくでもいい、たくましく育って欲しいじゃないけど、できなくてもそれはまあしょうがないよね。そういう風潮がある気がする。
でも、やっぱりぼくらは人と人の間に生きる動物、こと人間関係に関しては驚くほどに「どんな人でもがんばればできる」になってる。例えば、何でも語り合える友達を作るとか、好きな人をみつけて恋人同士になるとか。そんなにも高度な人間関係を達成するなんて難しすぎる!そう思う人だっているのに世間はお構いなし、「そんなこともできないなんて、君は周りと上手くやっていくために努力の一つもしたのかい?」してるんだって!
上には「勉強ができないの仕方ない」とか言ったけど、今思い返すとどうしても英文法を身につけられない人がいて、かけ算九九を覚えられない人がいて、そういう人ってどこかでバカにされてた気がする。その人はめちゃくちゃ努力してたのかもしれないのに、それを無視してバーカって。「3単現のs」が分からないなあんてありえなくない?7の段も言えないなんてあり得なくない?それって努力不足だけなんじゃない?特にかけ算九九の頃なんかみんな小2だから露骨にバカにし合ってたな。僕はドッチボールの玉が全然とれなくて露骨に狙われてたな。まあそれでみんな仲よかったんだけど。
結局世の中、「ここまでは全員できて当たり前」っていう最低限ラインの線引きがあって、そのラインに達していない人(絶対に一定数いる)は周りから練習が足りないだの努力が足りないだの。実はその人はものすごい量の努力を積んでいるかもしれなのに。



つらつら考えただけで理屈なんてないけど、義務教育の頃に「決定的にダメな科目」があったかどうかってすごく大きい気がするなあ。出来る科目がいくらあってもそんなのは関係なくて、何をしても絶対に上手くいかない科目があるかどうか。数値でことを測るのは下品だけれど、行ってしまえば「どんなに努力をしても成績に1や2がついてしまう科目があったかどうか」、ってことです。
みんなができて当たり前、とされることをどうがんばってもできないことの悲しみや憧れ、そして疎外感。ああー、僕には勉強があってひっかったなあ運が良かったなあと心から思う(まあ大学内での成績は最低ランクですが)。僕は体育や美術が決定的に出来なかったし、人間関係もどうしようもなく苦手だ。だからこそ才能に恋い焦がれるし才能にそっと嫉妬する。シット!って。


と言いつつ、まあ自分の場合は努力不足も否めない、っていうか、間違いなく、僕の人間関係に対する意識や努力が低すぎるだけだな。周りの人たちと繋がりたい、そんな欲望だけが先走ってるだけじゃI don't deserve it、自分の方から自分を変えて、それすなわち自分の目を通してみる世界の意味を変えていかないと、いつまでたっても今のままですよ。僕よりも才能のある人がさらに研鑽を積んでるはずだ。周りが様々な人間関係を構築するために使っている手間暇や労力、そして充足的な人間関係を求める鉄の意志、そういうものが僕には足りない気がするんだ。そろそろ25才になるのに、未だにこんなことでうだうだしているんだ。ああ、大人になる日はいつくるってんだい!