葬儀屋の作る感動って技術としてはすごいけど何だかうすっぺらで、何だかコブクロの歌みたいだ。

それにしても、葬儀屋ってすごいな。葬式での「感動」をこれでもかって演出してくれる。おごそかな言葉遣いとか、司会の声の張り具合の緩急・抑揚とか。態度もすごく丁寧で、個人を忍ぶ感が満載。何せ葬儀を取り仕切る人の名前が「○○ 礼」さんだからね。名前からして礼儀正しい!何だか感動的なムードを作る音楽がずっと流れていて、泣くための全てがそこにはあるって感じ。


で、子供な僕は、何て言うんだろ、そういう「涙を流す」っていう形の感動を作り上げることが目的になっている気がして、違和感というかものすごく嫌だった。人の死を題材に「大感動祭」をやってるみたいな感じ。


人は簡単に場の「ムード」に踊らされてしまう。適切な題材を用いて、そこに様々な舞台装置(ナレーション、証明、音楽 etc)さえ用意してやれば簡単に泣く。アホみたいに単純に泣く。それは認めるし、それを利用して泣きの快感を得るのも決して悪いことではない。
ただ、その「適切な題材」に身近な人の死を使っちゃいけないんじゃないのか。


葬儀って、そりゃ昼から酒飲んでバカな話ばっかりするしそこで故人の恥ずかしいエピソードを肴にすることはあるけれど、「こんなに飲んでたら葬式が一つ増えるかもな〜」とか不謹慎極まりない冗談もとばすけど、それでも「死んだあの人のため」が基本姿勢であるべきだ。
なのに葬儀屋の葬式は、大切な人の死を上手に用いながら振る舞いで司会で、何だか急に盛り上がる薄っぺらい音楽で、どんどん空間をムードで飽和させていって露骨に「涙」を誘う。「死んだあの人のため」がどっかに飛んでちゃってて、いつの間にか「みんなで感動する(みんなを感動させる)ため」になっちゃってんだよ!


葬儀屋さんが演出してくれてる雰囲気に乗っかったとして、故人のことをきちんと思うことが出来たなら別に問題ないじゃん。それが素直に感動的なんだし、みんなで泣ければいい葬式じゃん。ややこしいこと言って故人との別れを台無しにしてるのはお前じゃん。
ってのも分かるし、おそらくは正しいんだけど、やっぱダメだ。違和感を感じてしまってしょうがない。


映画の「タイタニック」観て泣くのは別にいい。そこにある「泣きのきっかけ」すなわち「大切な人の死」は、実際には「『彼女にとって』大切な人の死」から。自分とは関係無い世界での物語としての「死」だから、最初から手段として用意された「死」だから。泣くために一つの死を消費することが、1500円(学生)の消費により保証されている。


でも「『自分にとって』大切な人」の死を同じように作られたフォーマットの中で消費してしまってよいのだろうか。もちろん答えはノー!大切な人の死だからこそ、故人との数え切れない思い出があるからこそ、一つのあまりに大きな別れがもたらしたこの気持ち、言葉にならない思いを、言葉にならないまま受け止めなくてはいけない。少しずつ言葉にしていかなくてはならない。それが「大切だったあの人」にしてやれる、最後のはなむけだ。
決して「感動」とか「悲しみ」とか、外から押しつけられた安直な言葉に耳を傾けてはならない。


とか考えながら、自分が本当に恥ずかしかった。何でこんなこと考えちゃうんだろう。ただ故人を忍ぶことが何でできないんだろう。周りの人はそんなことまるで気にせずに、ただ素直に、真摯に祖母との思い出の中にいた(いるように見えた)。すると、自分が上に書いてきたような思いが、周りほどに祖母の死を悲しめていない自分を弁護するための詭弁なだけのような気がしてきてますます情けなくった。でも情けないとか情けなくないとか、本当はそんなこと気にする必要はないはずで、自分なりの礼を尽くして祖母を見送ることができればいいはずだな、とも思った。


そんなこんな気持ちがぐるぐる循環する中、作法に自信が無くてまわりをちらちら見ながらぎこちなく3度の焼香を終えた。背中しか見えないお寺さんの読経を聞きながら、祖母とのあれこれを思い出していた。
ひねくれた、ややこしい孫でごめんなさい、おばあちゃん。ただ、あなたのことを真剣に見送りたいって気持ちはちゃとしてたつもりです。さようなら。あの世でもお幸せに。